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「そっと何かをめくる」 野矢茂樹さん×サンキュータツオさん

トークイベント 野矢茂樹さん×サンキュータツオさん(後編)

前編から続く

そうだよね、と、そうだねよ

 
野矢 サンキューさんは、早稲田大学の国語学者、中村明さんのお弟子さんですよね。そのからみもあって、新刊じゃないんですけど、おもしろかった話があるので、話を変えてもいいですか。何年か前に出た本なのだけど、泉子さんって知ってる? 泉子・K・メイナードさん。
 
タツオ はいはいはい。会話分析や語用論の先生ですね。ぼくはわりと先行研究で入れていますね。
 
 日本人で、日本語母語話者なのですが、アメリカで研究を続けている。『っていうか、やっぱり日本語だよね。』という本があって、タイトルに惹かれて中を読んでみて、おもしろいなと思った話題があったんです。
 サンキューさんは言葉の専門家でしょう、だから話してみたいなあと思って。それからみなさんにも話してみたいなあと思ったんです。「よ」と「ね」。
 
 終助詞!
 
 そうそう、その違い。「そうだよ」というのと、「そうだね」というのでは、明らかに違うんだけど、どこが違うか言える?
 
 むずかしいっすねー。
 
 メイナードさんは「情報量の差」だと言うんですよ。話し手と聞き手の情報量の差。例えば、雨が降ってきたことを言うのに、話し手の方が多くの情報量を持っているときには、「よ」を使って、「雨が降ってきたよ」という。聞き手の方が多くの情報量を持っているか、話し手と聞き手で差がないときには、「ね」を使って「雨が降ってきたね」と言う。確かにその例ではそうかなと思うのだけど、それだけじゃ説明できないんじゃないか。
 
 反証がありますか?
 
 「行こうよ」と「行こうね」、これはどうだろう。情報量の差っていうかんじがあまりしないでしょう。もっと際だった例としては、「わかったよ」と「わかったね」。おもしろいのは「わかったよ」というときは主語が私なんですよ。「わかったね」の主語はあなたなんですよ。これはもう一つ上手く説明できないだろうと思うんですよ。
 それから今のと同じ例を考えたのだけど、「あのケーキ食べたよ」というのと「あのケーキ食べたね」っていうのは、誰が食べたか違うでしょう、これ!
 
 なるほどなるほど。
 
 「あのケーキ食べたよ」は「ぼくが食べちゃった」だし、「あのケーキ食べたね」は「おまえ、食べただろう」ってなるわけですよね。「よ」と「ね」でこういう違いが出てくる。そしてもう一つ、文章の組み立て上――つまり構文論上――違いが出てくるのは、「だよね」とは言えるけれど「だねよ」とは言えない。
 
 うーん。
 
 「よ」と「ね」は重ねられるんですよね。これだけ違う働きを持った「よ」と「ね」を重ねることはできるのだけど、「そうだねよ」って言えないんですよ。これはなんでだろう。これもメイナードさんは、情報量の差では説明ができなくて、すっと別の原理を入れたりしていて、統一されていないんですよ。(会場 あはははは)
 
 日本語では、情報を伝える言葉と態度を伝える言葉では、情報を伝える言葉が先に来るという原則があるんです、と言っているんですけど、「よ」と「ね」の違いは情報量の差ではなかったのかと。
 
 つっこみますね。
 
 それでね、私が考えたのはね、「よ」というのは話し手から聞き手、私からあなたに向かっていく言葉で、「ね」というのはあなたのもとに立とうとする言葉だとするのがけっこういいんじゃないかと思うんですよ。
 
 うーん。包括的に説明がつきますか。
 
 「そうだね」と言ったらあなたの方に共感を示そうとしているでしょう、「そうだよ」といったら自分の意志をこちらから伝えようとしているじゃない?
 
タ 「行こうよ!」そうですね、自分の意志ですね。
 
 「行こうね!」というのは君もそう思っているだろうから、こちらも同意して、と相手の方に立つでしょう。
 「わかったよ」「わかったね」というのはこれがもっと極端になっていて、「わかったよ」は自分が分かったことを相手に伝える。「わかったね」は相手の方に立って、念を押して確認している。共感したり確認したり、念を押したりするときに「ね」になる。そうすると、「そうだよね」とはいえるけど、「そうだねよ」とは言えない理由が分かるんですよ。
 
 おやっ?
 
 「そうだよね」は、「そうだよ」とまず相手に向かって、でもこれだと一方的で上からになってしまうから、「ね」と言って相手の元にとどまるんですよ。これを逆にすると、「そうだね」と相手のところに行ったのに、そのあとに「よ」がくっついて自分から相手に向かっていくのはこれは逆で、無理でしょう。相手のところに立っておきながら、そのあとでまた自分から相手に向かっていくことになってしまう。でも「そうだよね」というときは、自分から相手に向かって、そこに立つ。
 
 超おもしろい。お客さんどれだけついてきてるかなー。ぼくはいつもこんな話ばっかりしています。
 
 いま思いついたけど、俵万智さんの『サラダ記念日』の中に「「寒いね」と話しかければ「寒いね」と答える人のいるあたたかさ」という短歌があったけど、あれも「寒いね」だからいいのであって。
 
 「寒いよ」だと、「寒いよ」「寒いよ! 暖房入れろよ!」って、ケンカ腰になっちゃう。
 
 そうそう。すごくおもしろいのは、俵さんは自覚的に「寒いね」にしたのだろうけど、ふつうはこれを無自覚に使っているんですよね。「そうだよね」と言ったことはあっても、「そうだねよ」と言ったことがあるひとはいないでしょう。なんでって考えてみると不思議ですよね。
 
 不思議ですね。
 
 「よ」と「ね」を使い分けている。こんなことを無自覚にやっている。すごいなあと思いますね。
 
 言語習得ってことですよね。この『そっとページをめくる』でも子どもたちがどういうふうに言語を習得していくかという本も紹介されていました(『ちいさい言語学者の冒険』)。
 
 
 今の話はこれで終わりだから。
 
 終わっちゃった……。終わっちゃったんだ。差し挟む余地なし。(会場 あははは)
 
 しゃべりたかったんだよね。
 
 納得しましたよ。でもなぜか弁護側に立ちたくなるんですけど、泉子先生はあくまでも文論ではなくて語用論の先生なんで、文と語り手に特化した場合、情報の嵩を一つの基準として考えると、いくつかすっきりする事例がある、そのうちの一つなんじゃないかなとは考えられるんですけどね。矛盾は生じるけれども、情報の嵩っていうのはおもしろい視点だなあと思うんですよ。勉強になりました。さて、続いてのお話は?
 
 続いての話をしていいの?
 
 はい。
 

笑いって難しい!

 
 書評委員も、今日でお別れですねというとき、あのときですよね、サンキューさんがわたしに、「野矢さん、ぜひ笑いについての哲学をしてください!」と言ってくれた。
 
 これはねー、本当に期待しています。
 
 いや、期待されても困るんですけど、でもそう言ってくれた。
 サンキューさんはまさに笑いのプロ。といっても、サンキューさんはあまり笑いを取っていない。笑いを取っているのは相方の居島さんだよね。
 
 野矢先生は、ちょうどぼくらが池袋演芸場でやった独演会「例大祭」(この年は「口伝 砂の器」というサブタイトル)を聞きに来てくださったんですよね。実は、ちょうど昨日は、松本清張記念館での公演でした。
 
 小倉の?
 
 はい。小倉の清張記念館で、
 
 よく許されたね(笑い)。
 
 そうなんですよ、公式に認められた、記念すべき公演だったんです。ぼくは、あのネタに関しては狂言使いみたいな感じでしたけど。
 
 野村芳太郎監督の『砂の器』。主演は加藤剛で、刑事役に丹波哲郎。それをまあ居島さんが舞台上で再現していじくりまくる。いや、面白かった。
 でもその話をするんじゃなくて、笑いの哲学だけど、笑いって本当に難しい。これを哲学するって難題中の難題なんだろうなあという気がするんだけど、なんで難しいかというと、笑いって多様なんですよね。
 
 そうなんです。
 
 嘲笑うような笑いもあれば、あたたかい笑いもある。大笑するような笑いも、いろんな笑いがある。笑いを誘う仕掛けも本当にいろいろ。だから何を言っても、これはどうなの? と反例がくる。それで、実は今朝ね、ベルクソンを読み直してきた。
 
 おおーっ! 人生で一度言ってみたいですね。今朝、ベルクソンを読み返してきた。言ってみたいわー。
 
 30年ぶりなんだけど。
 
 ぼくは文体論的に笑いのテキストを分析しているんです。いくつか書籍化の話もあって、こないだも文体論学会で発表してきました。でも、笑いとは何かをまず定義しておかないと議論できないじゃないかという反論が必ずやってきます。
 ぼくはお客さんがここでウケているという事実を元にして、なぜそれがウケたのかを考えたり実証していくというスタンスを取っているので、その問題に関しては棚に上げていますと答えています。
 とはいえ、いろいろな学問領域、心理学とか社会学などが台頭してきた。フロイトは精神分析学で笑いを定義し、それ以前哲学でもそれこそプラトンから笑いとは何かが定義されてきてはいる。そして社会学では、幸せの笑いと社交上の笑い(つまり赤ちゃんが笑みをたたえるのと愛想笑い)は、何かを聞いておもしろがって笑っているものではないので、とりあえず除外をして、おかしみの笑いに特化して議論をしようという前提を設けたりする。だけど、どうしても包括的な説明ができない。
 たとえばショーペンハウアーは、笑いは異なる二項の対立(いわゆる一般の人が言うズレ)ですべてを説明しようとするんですけど、ズレって言われても、それだけではうまくいかない。なぜなら、明らかにここはこうなるよねと分かっていて、それが来たときの面白さとか、だじゃれとか、物まねのの面白さは、何と何がずれているんだ、と反論したくなる。このことについても、いろいろな人がいろいろな言い方をしています。だから、ここはもう野矢先生の出番しかない。分析哲学を専門とされていますが、落語もお好きですし、ベルクソンも読める。野矢先生が笑いについて、とくにおかしみの笑いについてどうお考えになっているのかをどこかで形にしていただければ、先行研究でひきやすいなあと思います。いまは何を先行研究として紹介すればよいのかもわからない。哲学はベルクソン以降止まっている感じがあるので、そのあたりの見解を伺いたいと、ずっと思っていました。
 
 いやまあ、あんまりハードルを高くされても、ハードルを蹴飛ばして倒すだけなんだけどね。それにベルクソンは今朝午前中読んでいただけ。
 『笑い』というのは、ベルクソンの哲学があそこににじみ出ているから、笑いに忠実に寄り添って書かれた笑い論というよりは、自分の哲学から笑いを、とりわけモリエールとかフランスの喜劇を見て取り出すようにして書いたものですね。
 
 それ、一番いいスタンスですよね。
 
 どうなんだろう。一番いい?
 
 正面から行くと逃げてしまう。
 
 うんたしかに、笑いを定義しろと言われてもむずかしい。
 ベルクソンの哲学というのは、生きるということが、連続的で切れ目のないものであって、しなやかなものだという感じがあるわけですよ。その中でこわばりとか……
 
 こわばりって、緊張みたいなものですね。
 
 そうですね。生に対する滑稽さは唐突に生じるものであり、こわばりとして現われてくるもの。ベルクソンの生の哲学の中で言うと滑稽さはむしろ異物なんですよね。
 
 なるほど。不自然なものだと。
 
 うん、生きるってことは自然。こわばりは不自然。ここに、自然と機械という二元論が対置される。それからもう一つは精神と物質が対置される。精神という連続しているものに、切れ切れになっているものが現れてくる。滑稽さとはベルクソン哲学のそういう対立の中に入り込んでくるものなんですよね。
 そして、最初に笑いについて3点押さえておこう、といいます。その3点については異論はないんだけどね。
 まず笑いというのは人間独特のものでしょう。
 
 最近ではチンパンジーくらいまでは認められている?
 
 でもその笑いっていうのは、どういう笑いなのかよくわからない。笑ったような表情はするだろうけど……
 
 おもしろいと思っているかどうかはよく分からない。
 
 うん。第二に、情緒は笑いの大敵である。これは今ひとつぴんとこないところがある。まあそういうところもあるだろうけど、もう少し慎重に検討したいなってね。
 
タ ああなるほど。
 
 無感動が笑いのポイントであるという。
 
 たとえば、だれかがバナナの皮に足を取られて転んだ。そんなシュールな光景は見たことがないと思いますが、人の失敗を見て笑うという現象があったときに、それが見ず知らずの人だったら笑えるが、自分の恋人だったり、自分自身だったり、身内だったり、情を移している人間が失敗したら、それは笑えない。
 
野 あわれみが生じてしまったら笑えない。
 
タ 情緒という言葉で説明できますね。
 
 でも喜びが笑いになることもあるから、感情が笑いと結びつかないということにはならない。笑いがかならずしも理知的だとはならないと思うんだけどね。
 それで、3番目に笑いはとても社会的なものである、という。これもね、確かに社会的なものだと思うんだけど、どういうところで笑いが社会的なのかをもっと明らかにする必要がある。でもベルクソンは、この3点は基本的に押さえておくべきだと言った上で、でもこれだけでは笑いのへそを押さえたことにはならないという。じゃあどうすればいいか。
 こわばりというのは、社会の機能と生の流れを停滞させてしまう……。
 
 人の中のこわばりというのは、融通が利かない人、きまじめすぎる人。それをこわばりと呼ぶ。
 
 で、笑いというのは、そのこわばりをほぐして、そしてこわばった人を矯正する、「それじゃだめだよ、おまえ」て言う役割なんですね。基本的に生や社会に対して、異物であるものを排除したり、直したりするようなものなんだと。
 
 つまり、きまじめすぎる人やぼけている人に、突っ込む作業、修正していく作業みたいなものってことですかね。
 
野 もちろんベルクソンの言っていることがそんなに外れているとは思わないんだけど、ぴんとくるかというと、もう一つぴんとこないところがある。それはベルクソン自身の哲学の視点から語られすぎていて、こちらにぴんとこないものがある、あるいはベルクソンがそこで笑いの対象として考えていたサンプル、たとえばモリエールの喜劇では、私は共有できるものが少ない。そして笑いってもっと、そういうものじゃないんじゃないかな、っていう気がする。もちろん私が言っても、笑いの一部分にしかならないだろうけど。
 

安心空間

 
 わたしだったらどんなふうに考えていくか。
 われわれはさまざまな規範に縛られているわけですよね。こうすべきだ、こうしなくちゃいけないという規範に縛られて、社会というものが成り立っている。
 でもそれがやっぱりうっとうしくなる。そこから逃げる、コンプライアンスしないという、規範からの解放みたいなものが笑いにつながるという気持ちが私の中にはある。規範からの解放というのはまさに家綱の絵みたいなもので、「こう描かねばならない」から自由になって、解放感を与えてもらった瞬間に、自分の中で緊張がゆるむ。私にとってはベルクソンよりも、桂枝雀のキンカンの法則(緊張と緩和の法則)の方がぴんとくるな。そういう規範に縛られた状態から解放されて、ふっとゆるんだ状態で、体がいい意味でけいれんする。
 
 それが笑い?
 
 うん。それが笑いっていうことなんじゃないかなという気がするんですよね。笑うのも規範から解放されてほっとしたとき。規範から解放されて途方に暮れたりうろたえたり、かえって緊張していたら笑いは生じないわけです。
 
 いけない、いけない、このままではぼくはだめだ……と思ってしまったら笑えない。
 
 安心感が笑いの必要条件なんですよね。だから笑いには、これは笑っていいんだよっていう安心感がある。本来、社会的にはそれは笑ってはいけないことなんだけど、笑っていいんだよっていう場にそれが置かれたときに、なんかすごく緊張が解けて、社会的な規範から逃れて解放された自分を感じる。
 
 なるほど。
 
 寄席みたいに、ここは笑っていいんだよっていう場をちゃんと作ってあげることがわれわれにとっては大事なことになるわけですよね。
 
 劇場空間だと、笑っていい場所ということが保証されていますが、日常生活だと笑っていい場所かどうか、そのときの判断にゆだねられる場合がありますよね。
 
 ひんしゅくを買うのと、笑いを呼ぶかは紙一重ですからね。
 
 人の失敗にしても、おならをしたのを聞いてしまったのが目上の人だとしたら、笑っていいかは迷う。笑った方が気持ちが楽になるけど、失礼になるかもしれない。ここはギャンブルです。
 
 私、人生で一番笑いを取ったのがね、全然記憶にないんだけど幼児のとき。
 
 それは記憶にないですよね。スタートダッシュだけだったんですね。幼児で一番ピークを迎えた。
 
 穴が空いちゃった座布団というのがうちにあったらしいんだよね。座布団の上でアイロンをかけていて、あぶないねえ。
 
 うわあ、こわい。
 
 あぶないね、貧乏だったからたぶんアイロン台が買えなかったんだと思うんですよ。ふつうにあの頃は貧乏人っていて、うちもまさに貧乏人でしたからね。でね、葬式をやっていたらしいのね。
 
 えっ!
 
 葬式の場で、坊さんがお経を唱えているでしょう、幼児のぼくはね、その穴の空いた座布団を袈裟に見立てて頭からかぶってね、南無南無南無南無言って、部屋の中に出ていったというの、みんな笑うに笑えなくて、うつむいて、うぷぷってやっていた。
 
 笑っちゃいけない場こそおもしろいっていうのもある。これもどうなんだろうって思うんですよね。笑っていい場所って保証されているところで笑うっていう弛緩もあるんですけど、「笑ってはいけない」というフリのある場を作ることに、ダウンタウンの松本さんはいち早く気付いたんだと思うんです。「笑ってはいけない」という場を用意したほうがより笑えるんだという発見です。
 
 守らなければならない社会規範や常識があって、その縁(へり)ですよね、縁のところをこっちにいこうか、あっちにいこうかと危ういところで、すごいことになることもあるわけですよね。
 ジェームズ、どうもベルクソンとかジェームズとか昭和初期の匂いがしますね、とても現代哲学をやっているとは思えない人選なんだけど、そのジェームズの有名な言葉で、「悲しいから泣くんじゃない、泣くから悲しいんだ」というのがあります。
 これは半分かそれ以上は正しいところをついているんだと思うんだけど、笑いにもそういうところがある。笑いっていうのは、自分が危険であるとか当惑しているとか、そういうところにはなくて、ある安心感が絶対必要なわけですよね。でも、ジェームズ効果で笑うことによって、むしろ安心を生み出すこともあるだろうと思うんですよね。
 
 なるほど。
 
 笑うことによって、その場を安心させていく。ここは安心していい場所なんだと言うことをお互いに確認していくような社交の場としての笑い。
 
 おもしろいですね。そっか、笑っていい場所を安心空間と名付けるとすると、寄席とかお笑いの劇場もそうですけれども、社会的に笑っていい場所だと保証されている。でも日常的に笑っていい場所か分からないけど、笑うことによってそこを安心空間にしてしまうということもあり得るんだ、と。
 

名人の笑い

 
 でも落語を考えたときに、ちょっとおもしろいなって、こういうことかなって思ったんだけど。名人っていう言い方があるでしょう、志ん生を名人って呼ぶかどうかは私は分からないんですけど。
 
 難しいところです。
 
 落語ってかなり規範があるんですよね、こうしなければならないというきまりがある。前座が覚えなければならない約束事もあるけれども、真打ちになって名人になっていくときに、自分で体得していって、ここはこれしかないなみたいな、これしかない感があると思うんですね。そうした自分の中で培ってきた規範が100パーセント発揮できる人って、名人って呼べるんだと思う。でも、笑いっていうのは名人をも笑い飛ばしてしまうようなところがある。規範があって、でもそうじゃなくてもいいだろうという破壊的なところがある。私はね、名人の落語もすごいなって思う。たとえば、「芝浜」を三木助がやったときのようなね、夜明けの芝浜の光景が浮かんでくるようなうっとりするような芸もあるんだけども、ひたすら破壊的な笑いもあってさ。
 
 先代の三平みたいな?
 
 うーん。いまだと一之輔。
 
 そうですね、一之輔師匠。
 
 「名人? なんだよ、それ」みたいにやっているところがありますよね。それはすごいなあという気がします。
 あ、そうだ。ぽんぽん話が飛びますけどね。いや、それほど飛ばないか……、ギャグとユーモアってどう違うと思う?
 

ギャグとユーモア

 
 ユーモアはヒューマン、人間性です。ギャグには人間性はないんです。
 
 ギャグには人間性がない?
 
タ その場しのぎ。誰が言っても、ある程度おもしろい。ユーモアは広義でおもしろも含みますけど、悲しみとか切なさみたいな概念も含むものがユーモアかなって思うんです。
 
 ユーモアには悲しみや切なさも混じってくる。
 
 はい。それはヒューマンに根付いていることばなので、Humor。だから世界の見方。
 
 しかし一秒も考えなかったね。
 
 これはずっと考えていることなんです。
 
 なんでこんな話をしたかというと、ギャグってそうとう破壊的なんだろうなって思うんです。対象を破壊する力で向かっていく。でもユーモアっていうのは人間的、そこに切なさや悲しさが混じっているというので、なるほどなあと今思ったのが、ユーモアは対象に対する距離感なんですよね。べったりしない。かといって離れすぎない。対象に対する距離感がユーモアという形でその対象を捉えていく。だからそこには対象に対する愛情もあるだろうし、今いった悲しみや切なささえ混じってくるっていうのは、そういうことかなあって。
 
 たしかに。あとは味わう時間の問題ですかね。ギャグはアシが早いですね。
 
野 破壊力だから、バチーンと一発やるわけでしょう。
 
 ユーモアは賞味期間が長い。じっくり、長い期間味わえる。
 
野 お笑いはギャグは追求するけど、ユーモアってなかなか……、
 
 むずかしいですよね。3分、4分でユーモアを表現せよといわれてもむずかしいです。テレビ局に持っていっても、それ、中学生に分かるようにしてくださいって言われます。生き物としてそれは弱い。でも落語の中にそういうものは生きてるとぼくは思います。笑わせる話もあるし、笑いの中にちょっと怖いなって思う要素があったり、人情噺があったり、いろいろな球種を持っている。漫才はストレートしか投げられない時代になっちゃっているんですが、落語はいろいろな球種があってすごくいい。
 
 漫才はストレートしか投げられないっていうのはどういうことですか?
 
タ 笑わせることしか求められていない。
 
 ああ、そういうことか。
 
 経済効率が最優先です。何分かで何回笑わせるかっていうようなことが最優先されすぎているんです。ロボコンとかでもあるじゃないですか、優勝するチームのロボットってぜんぜんおもしろくない。それはなしだろう、つまんなくねーみたいなのが漫才になっちゃった。よく考えたねー、このロボット、設計概念がおもしろいわみたいな味わいはもうなくなっちゃったんですよね。経済効率を高めていった結果、ちょっと素っ気ないものになってしまったかなっていうのが、最近の漫才を見て感じるところではあります。
 
 米粒写経は?
 
 ぼくらはそれに対抗しています。
 
 だよね。
 
 なので時代に評価されないのはしょうがないかなと思うんですけど。でもひと組ぐらいそういうのがいてもいい。
 
 サンキューさんがステージで、クスリともせずに、丘と山の違い分かりますか? って。(会場 ははははは)
 
タ 高さじゃない。
 
 人のネタでなんなんですけど、山には神様がいるんですよ。丘にはいないんですね。(会場 ははははは)
 
 違うよ、死体を捨てにいっていいのが山だよっ。(会場 ははははは)
 そんなことを相方が言ったりしながらね。言葉の意味の違いのネタとかもやったりするんですけど、そうすると、フリが長いっていわれちゃうんでカットせざるを得ない。
 
 寄席じゃできない?
 
 寄席ではやっています。言葉のネタは、浅草とか新宿の12時台っていう枠で、持ち時間が10分もないようなとこでやったりする。今日はどれくらいウケるかなって。「砂の器」の再現はできないですね、90分必要ですから。
 
 すごかったもんね。さっきいい加減に終わっちゃったから失礼な発言になっちゃったかもしれない、ちゃんとフォローしておきます。居島一平さんの「砂の器」の再現、めちゃくちゃおもしろいですよ。
 
 あ、よかった。
 
 あの再現はおもしろかった。でも居島さんは本当はあの映画好きなんでしょう?
 
 あの人は好きですね。
 
 丹波哲郎のまねをするわけね。
 
 丹波より丹波。丹波120パーセント。
 
 若い人、知らなかったらごめんなさいね。知っている人はめちゃくちゃおもしろい。
 
 うちの相方も幼い頃に見て、感動しているんで、大人になって初めて見てたらそこまでじゃなかったと思うんです。子どもの頃見たものってずっと残っていると思うんですよね。ぼくも小さい頃、『ニュー・シネマ・パラダイス』を見てすごく感動して、大人になってからは、あ、こんなに冗長な映画だったっけって思ったりするんですけれど、それでも好きな映画だったりします。
 でもそうやって見ていただけると、本当にありがたいですね。
 
 あのときに、ネタをやるんじゃなくて、何気なく出てきて何気なくしゃべって何気なくおりていくようなステージをやりたいと言ってたでしょう?
 
タ そういえばそうですね。
 
 だから、今日はそういうのがいいのかなって思って、打合せやんないでいいよ、って来ました。
 
 そうしたら5分前に到着するってね。
 
 全然問題ないですよ。
 

哲学対話

 
 先生、ぼく一つ聞きたかったのは、完全に本の話に戻っちゃうんですけど。梶谷真司さんの『考えるとはどういうことか?』という本の書評の中に、哲学対話という試みがあると。で、正直なめていたという話のあとに、先生も実際に参加された写真が載っていました。
 
 参加したって、しゃべりはしなかったんだけど。
 
 実際どうだったんですか。
 
 疲れる。
 
 疲れる?
 
 なんだろうね、あの疲れ方は。正直言って、私には向かないなと思いました。でも上手く機能しているんですよ。実は、そのときの話題も疲れる話題だったんだよね。安楽死、あるいは延命治療をしなくちゃいけないんだろうかというような話。一方では、自殺の話にもつながっていくようなたいへん重たい話。でも何を言ってもいいぞという雰囲気になっていた。
 
 やっぱ、安心空間にも似た空間。ここにも書いてあるんですよ、「問題解決の討論ではなくて、自分自身を解放するための身体的なエクササイズ」と。
 
 うんだからね、人によっては発言したときに、なんていうのかな、自分いいこと言ってるなあみたいな、そういううぬぼれ心を持ちたくなるじゃない? そういう発言をしたくなる。いいことだからちょっと聞きなさい、みたいなね。
 でも哲学対話のあの場にはそんな気持ちがないわけだよね。それはすごい。今日その話ばっかりだけど、家綱だなと思って。
 
 家綱ですよね。それはおもしろそうだなと思ったんです。
 
 いやでも、わたしは解脱できていなくてね。
 
 でも、先生がいる場所は緩みますよ。
 
 私は緩んでないよ。
 
 先生は気を抜いてないのが見えちゃうんで、ぼくは距離を測りかねていたんですが、野矢先生の周りの方は、話しやすい方だなって、そういう空気を出してくれていたんで、書評委員会は話しやすい雰囲気になっていました。
 
 授業と会議を一緒にしたら悪いけど、授業でもゼミなんかで人の発言を求めるときには、一番苦労するっていうか、まず一番最初にやらなくてはいけないのはそこですよね。間違えてもいいんだぞって、間違えても恥ずかしくないよって。だからいろいろ質問するときに、最初にいうことは、いきなり正解を言われるほどつまらないことはないからって。正解いうとね、やな顔をする。うれしそうにしない。
 
 なるほど。
 
野 二人の学生がいてね、ある学生がAと言って、別の学生がBと言ったら、私は一歩退いて、Aという答えを言った学生に、Bと答えた学生を説得して、BをAに変えさせるように話してみて、Bの人にAと答えた学生を説得するように言ってみて、とそういうやりとりをする。そのやりとりが授業になっていくわけで、これはもう間違えてもそこから始まるんだなって、感じを持ってくれればいいなと思っています。でもこれは難しい。
 哲学対話っていうのも、ここはまさにそういう間違いとかそういうのはないんだと。いいこと言うって思わせなくていいんだっていう気持ちになれれば、それは本当に素晴らしいこと。そういう場で自分を解放できたら、ふっと体が軽くなるような体験ができるかもしれない……、ぼくはそう思ったのに、体がずーんと重くなって、まだまだだめだなあって思った。でも、かといって、これは経験を積もうとも思わなかったな。疲れるんだもの。
 
 暗示がきかないタイプなんですかね。
 
 そうかもしれないね。
 

場をつくる

 
タ だけれどもその場の問題というのは大きくて。ほんと不思議に思うんですよ、授業ではなぜ勝手に笑っちゃいけないっていう空気になっちゃっているのか。
 
 哲学の話をしていると、私の冗談がつまらないってこともあるんだろうけど、学生がクスリともしてくれないときがある。めげるんだ……。
 
タ こまるー。あれ、こまるー。
 
 でも学生がたまに笑ってくれるときがあって、そういうときはこの授業、上手くいってるなって。笑うってことは気持ちに余裕があって、授業についてきているってことなんですよね。
 
 理解しているってことですもんね。
 
 サンキューさんは授業で笑わせようとしないの?
 
 いやあ、どうかな……、クラスによりますね。
 
 そもそもあなたのところの学生さんは今来ているのが漫才の人だってこと、わかっているの?
 
 分かってないです。知らないです。あの、「知らないですよね」ということを一番最初に確認します。(会場 あはははは)
 「ぼくのことを知っている人?」って聞いて、「今年3人いるかー」とか思って。「変わった子だね、君!」みたいなそういう話から入ります。ぼくは18歳までの日本人には見つからないように活動しているはずなので、18歳の時点でおれのことを知っていたら相当おかしいよって。ラジオ聞いているか、本読んでるか、新聞読んでるか、雑誌読んでるか。どこで知ったんだってところまで聞いて、ああ、そうですかーと。でも今年の頭に成城大学で聞いたら一人も知らなかったんで、今年は誰もいないって燃えましたね。
 授業は、自分たちの力不足はもちろんなんですけどね、やっぱり場による影響が大きいのかな。
 
 授業でね、わりとかっこつけの方だからだじゃれとか、親父ギャグとか絶対言わないの。
 
 かっこつけの方だから……(笑い)。
 
 まあうっかり出ちゃっているかもしれないけど、案外言った方がいいかもしれないね。ああ、そういう授業なんだ、そういう先生なんだっていうのをまずぱーっと出してしまって。
 
 あ、ゆるいなって。
 
 うん出しちゃった方がいいのかもしれない。
 
 なるほどねー。ぼくなんかは留学生の授業で、口頭表現のときにはわりと積極的に話して欲しいので、Tシャツと短パンみたいな格好で行くこともあるんですよ。格好からフレンドリーな感じに行く。スーツで行ったら完全に構えちゃうんで、わりと衣装も大事だなって思って。
 
 うん、Tシャツ、短パンで来ればねえ。
 
タ ジーンズとか。その方が積極的に話してくれそうな気がするんですけど、どうしても日本語だと自分の国で話しているのよりも暗い性格になっているっていう子が多い。これをどうしたらいいのかというと、やっぱり失敗したり笑われちゃうことを恐れている。そんな、教習所に行く人だって、最初から完璧に運転できる人はいないし、失敗するのが当たり前なんだよって言うんですけどね。
 
 そういう留学生って、わりとアジアから来てる?
 
 アジアの学生が多いですね。
 
 そのメンタリティってアジアのメンタリティで、イギリス人なんかはもっとシャイなんだと思うけど、アメリカ人だったらもっとそうでもないんじゃないの?
 
 ガードレールにぶつけまくって運転してますもんね。まちがっても、おまえがまちがってるみたいな。(会場 あははは)
 でもまあ、場を作るっていうのはたいへんなことだなって思います。
 先生の本はそういう意味で言うと、読む人にも身構えさせない工夫が随所にあって、すごく楽しい本でした。是非みなさんも味わっていただければと思います。
 
野 おお。とってつけたような締め方。

 
 

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著者略歴

  1. 野矢 茂樹

    1954年(昭和29 年)東京都に生まれる。85 年東京大学大学院博士課程修了。東京大学大学院教授などを経て、現在、立正大学文学部哲学科教授。専攻は哲学。
    著書に『そっとページをめくる』『まったくゼロからの論理学』(岩波書店)、『哲学の謎』『無限論の教室』(講談社現代新書)、『入門! 論理学』(中公新書)、『新版 論理トレーニング』『論理トレーニング101題』(産業図書)、『語りえぬものを語る』『哲学な日々』『心という難問──空間・身体・意味』(講談社)、『増補版 大人のための国語ゼミ』(筑摩書房)、『ウィトゲンシュタイン「論理哲学論考」を読む』(ちくま学芸文庫)、『心と他者』『哲学・航海日誌』『ここにないもの──新哲学対話』(中公文庫)、『大森荘蔵──哲学の見本』(講談社学術文庫)などがある。訳書にウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』(岩波文庫)などがある。

  2. サンキュータツオ

    1976年(昭和51年)東京に生まれる。早稲田大学大学院博士 後期課程修了。「米粒写経」のツッコミ担当であり、 お笑い芸人にして日本語学者。一橋大学、早稲田大学、成蹊大学、 非常勤講師。著書に『ヘンな論文』『学校では教えてくれない! 国語辞典の遊び方』(ともに角川文庫)などがある。『広辞苑』第 7版ではサブカルチャー分野の単語の執筆をした。

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