岡﨑乾二郎 TOPICA PICTUS
1 Aletheia アレーテイア/An overflow from the River Lethe
どこかで確かに見たはずの情景で、いまも強い印象が残っている、にもかかわらず、どうしてもそれがどこであったか思い出せないということがある。情景などと言えるほどなまやさしいものではない。たとえば川べりの木陰で男たちがテーブルを囲みゲームに興じている。けれど土手の向こうには増水した川の泥流があって、きっと、いっときのちには土手を越え、人々の長閑な時を呑み込んでしまうにちがいない。不思議なのは、その男たちばかりか、荒れた川のすぐ側(そば)にいる人たちもさして慌てる様子はなく平静であることだ。人々はおっとりと流れる時にまだ留まっている。それは忘れ難い情景だった。氾濫する泥水の切羽詰まった時間と、安閑とした時間がそこには並存していた。
忘却とは無ではない、むしろ豊穣でまた肥沃ですらある。思い出せないが確かにそれがあったという実感が強く残っている。思い出せないがゆえに、それはますます存在感を増す。なんとか思い出そうとしても矛盾した言葉になって引き裂かれる。それは切迫しつつも穏やかであり続ける。
フランドルの画家ダフィット・テニールスの描いた《シナノキの下の宿》という絵を、あるとき、たまたま見つけたときに、どこかで見たはずだと思っていたあの情景はきっとこの絵のものだったに違いないと考えた。けれど、この絵を所蔵しているライプツィヒの美術館になど行ったことはなかったから、この絵を見ていたはずだという記憶はきわめて怪しい。ただ確かにその情景があったはずだという、よく思い出せなかった記憶が再認されたにすぎない。見ているとこの絵もちがう気がする。
忘却というのは実際に覚えていることよりもはるかに存在として過剰である。そのはっきり形にならない印象は言葉には尽くせないほど、まさに溢れている。ひとたびその実感にとりつかれれば、それらしきものをいかに見出しても、やがて、それもどうも違うと否定にいきつくことになる。忘却は一種の空白であるけれど、その空白は充溢していて、どんな実在する対象をも(それを認めないほどに)凌ぐのである。
アルブレヒト・デューラーはこのような風景を多く(ときには夢の記憶をもとに)水彩スケッチとして残したが、画面に溢れているのは描かれた樹木などをはるかに圧倒する空白の量感である。
Aletheia アレーテイア/An overflow from the River Lethe
2020,アクリル,カンヴァス,24.5×18.5×3 cm
※ 「アレーテイア」 古代ギリシア語で「真理」の意。アレーテイア(Aletheia)とはレーテー(Lethe、忘却・秘匿)の否定。レーテーはギリシア神話に登場する川の名前で、その水を飲む者はすべてを忘却するとされた。哲学者ハイデガーの重要な概念「存在忘却」にも象徴的に連なる。
※ ダフィット・テニールス(子)(1610-1690) アントワープ生まれの画家。
※ アルブレヒト・デューラー(1471-1528) ドイツ・ルネサンス期の画家。
*「TOPICA PICTUS」の画集は、ナナロク社より発売されています。