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シリーズ「クリティーク社会学」解説 試し読み

すでにあり、いまだなきコミュニズム(市野川容孝)――大澤真幸『経済の起原』解説試し読み

クリティーク社会学 経済の起原

 米田昇平(経済思想史)は、本書よりもそのタイトルが一字だけ多い『経済学の起源』(京都大学学術出版会、二〇一六年)で、近代経済学の始まりは、アダム・スミスの『諸国民の富』(一七七六年)等よりも約百年早く、フランスを中心に広がりをみせたジャンセニスムに見出せると述べている。

 ジャンセニスムは、フランドルの神学者、C. ヤンセン(Cornelius Jansen/一五八五-一六三八)を中心に形成されたキリスト教の一宗派で、パスカルなどもその支持者だった。アウグスティヌスへの回帰を特徴としたが、ローマ教会からは異端視され、弾圧された。米田も参照しているB. グレトゥイゼンによれば、フランス革命ではっきりするように、ブルジョアジーは最終的に世俗化(脱宗教)を求めてゆくものの、ジャンセニスムはブルジョワジーが従来の宗教(カトリック)から離反、離脱してゆく一つの重要な媒介となった(野沢協訳『ブルジョワ精神の起源』法政大学出版局)。

 このジャンセニスムに、なぜ、経済学の起源が見出せるのか。

 米田は、ジャンセニストのピエール・ニコル(一六二五-一六九五)と一六七〇年代のその著作『道徳論』に注目する。ニコルによれば、原罪を負う人間は、無意識の欲望の発露である「自己愛(l’amour-propre)」に支配されており、それは「われわれが胸の内に宿す怪物」と言うほかない(前掲『経済学の起源』三二頁)。ジャンセニスムは人間の罪深さと救済に関する人間の無力さを強調しながら、救いは神の恩寵によってのみ可能としたアウグスティヌスに回帰したが、その教えは、同じくアウグスティヌスの予定説をより先鋭化させたカルヴィニズムとも重なるところがあった。

 しかし、ニコルの新しさは、人間の堕落の証にほかならない「自己愛」から社会秩序が生まれるとした点にあり、米田はそこに経済学の起源を見る。「必要(besoin)」は自己愛が求める事物であり、ニコルによれば、世界中の人びとは「お互いに有する相互的な諸必要(les besoinsréciproques)を通じてすべての人々をお互いに結びつける連鎖の一部となる」(同書、三三頁)。自分の必要を満たすため、人びとは、私の欲しいものをください、そうすれば、あなたの欲しいものをあげます、という形で互いに結びつく。「取引(commerce)」が生まれ、社会が形成されてゆく(三八頁)。そうやって出来上がる秩序も、依然、堕落や原罪の域を出ず、過度の自己愛等を罰する神の(世俗権力を介した)統治が不可欠であるものの、自己愛、必要、取引によって動く世俗社会をニコルは神の意にもかなうとして肯定した。ジャンセニストのボワギルベール(一六四六-一七一四)はさらに、その神の場と役割を「自然」に置き換えながら、社会の秩序は「自然の働きに任せる(laisser faire la nature)」かぎり維持されると説いた(七〇頁以下)。後に重農主義が説く「自然の支配」「レセ・フェール(自由放任)」という考えは、すでにこのボワギルベールに確認できると米田は言う。

 米田によれば、「利己心の自由」が「結果として最大の善あるいは社会的効用をもたらす」という仕組み、「自己愛・利己心の自由な振る舞いを善に転換する錬金術」に関する考察が開始されるとき、経済学が道徳論や倫理学と袂を分かちながら誕生する(九-一〇頁)。

 ジャンセニストのニコルやボワギルベールの所論は、確かにアダム・スミスの経済学を先取りしている。彼らから約百年遅れて、スミスは「自愛心(self-love)」を経済の根幹にすえながら、次のように述べた。「わたしのほしいものをください、そうすればあなたのほしいものをあげましょう、(…)われわれが自分たちの食事を期待するのは、肉屋や酒屋やパン屋の仁愛にではなくて、かれら自身の利益に対するかれらの顧慮に期待してのことなのである。われわれは、かれらの人間性にではなく、その自愛心に話しかけ、しかも、かれらにわれわれ自身の必要を語るのではけっしてなく、彼らの利益を語ってやるのである」(大内兵衛・松川七郎訳『諸国民の富(一)』岩波文庫、一一八頁、傍点(下線)引用者)。

 しかし、このように考える経済学を、そのまま経済と同一視できるか。できない、というのが、大澤の本書の出発点である。そのタイトルは米田の書物と一字しか違わない(一字だけ短い)けれども、これはとても大きな違いだ。米田がその起源をさぐる経済学は、より正確には「自由主義経済学」と呼ばれるが(前掲『経済学の起源』一頁)、この経済学は人間の経済のごく一部しか見ていない。本書で大澤は、そういう前提に立っている。

 本書で大澤も参照しているD. グレーバーの『負債論』(酒井隆史監訳、以文社)は、人間の経済のあり方を大きく三つに分けた。第一は、「コミュニズム」であり、それはK. マルクスの『ゴータ綱領批判』(一八七五年)にならって「各人はその能力に応じて[貢献し]、各人にはその必要に応じて[与えられる]」という原理にもとづいて機能する、あらゆる人間関係、と定義される(前掲『負債論』一四二頁)。

 第二は、「交換」であり、その特徴は等価性と互酬性である(同書、一五四頁)。米田がその起源をジャンセニスムに見た(自由主義)経済学は、人間の経済をこの交換に限定することで誕生するとも言える。交換は、私が欲しいものをください、そうすればあなたの欲しいものをあげましょう、というA. スミスの上の言葉によって簡潔に表現される。

 第三は、「ヒエラルキー」であり、それは形式的な平等(等価性、互酬性)に支えられた交換と異なり、「少なくとも二者からなり、そのうちの一方が他方よりも上位にあるとみなされる関係」を前提とした経済である(一六三-四頁)。それは、与えることなしにただ手に入れる「窃盗あるいは略奪」と、受け取ることなしにただ与える「無私の施し」を両極とする。 このヒエラルキーが二者関係から三者関係に移行するとき、「再配分」の契機が芽生える(一六九頁)。すなわち、ヒエラルキーの上位にある者が、下位の比較的裕福な者から奪った富を、より貧しい者に見返りなしに与えるという経済のしくみである。

 「コミュニズム」をマルクスの『ゴータ綱領批判』にならって定義しつつも、グレーバーはある一点で、マルクスと異なる。「各人はその能力に応じて、各人にはその必要に応じて」という共産主義の社会を、マルクスは、いまだなきもの、今ある資本主義の社会の後に到来するものと考えていたが、グレーバーの考えは、コミュニズムはこれまで常に存在したし、今も、つまり資本主義の社会も、実はそれなしに立ち行かない、というものだ。

 たった二人の人間の交流であってさえも、わたしたちはある種のコミュニズムの現前に立ち会っているといえるのだ。(…)水道を修理しているだれかが「スパナを取ってくれないか」と依頼するとき、その同僚が「そのかわりになにをくれる?」などと応答することはない。(…)真剣になにごとかを達成することを考えているなら、最も効率的な方法はあきらかに、能力にしたがって任務を分配し、それを遂行するため必要なものを与え合うことである。ほとんどの資本主義企業がその内側ではコミュニズム的に操業していることこそ、資本主義のスキャンダルのひとつである、ということさえできる。(…)コミュニズムこそが、あらゆる人間の社交性社会的交通可能性](sociability)の基盤なのだ。コミュニズムこそ、社会を可能にするものなのである(前掲『負債論』一四三-四頁)。

 グレーバーによれば、コミュニズムの原理だけで成り立つ社会は存在せず、どの社会にも、交換やヒエラルキーの原理が、程度の差はあれ、混入している。グレーバーのこの見方が重要である。一九八〇年代末から九〇年代初めに東ドイツやソ連が国家として解体したとき、社会主義とは、あるいはコミュニズムとは、結局、資本主義から資本主義への長い回り道にすぎなかった、という揶揄が繰り返されたけれども、一つの社会は、資本主義、社会主義、コミュニズムのどれか一つによって染め上げられる(べきだ)という、この揶揄の(また、マルクス主義の)前提そのものが、冷戦崩壊とともに、失効したのではないか。だとすれば、こうした揶揄とセットで提示された「歴史の終焉」という断定に抗して、私たちは、足元にあるコミュニズムを再認し、また活性化しながら、いまだなき社会を今ある社会とは異なるものとしてつくることができるはずだ――。これもまた、本書における大澤の前提の一つだと思う。

 大澤は、経済に関するグレーバーの上の三分類を念頭に置きつつも、三つをただ並べるのではなく、原初的な贈与関係からヒエラルキーへの転換がどうやって生じるのか、さらにそれが商品交換に転換する条件とは何かを考察しながら、グレーバーが十分に論じなかったこれら三つの動的な関係を明らかにしている。その点に本書のオリジナリティがある。

  以下、本書での大澤の考察を、順にたどってゆこう。……

◇この続きは本書でお読みいただけます◇

 

(いちのかわ・やすたか 東京大学大学院教授)

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