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シリーズ「クリティーク社会学」解説 試し読み

残酷な赦し、愛の二重性、そして、慈悲のポリティクスからの自由(大澤真幸)ーー奥村隆『慈悲のポリティクス』解説試し読み  

奥村隆『慈悲のポリティクス』

 互いが愛しあい、赦しあうならば、平和で調和的な理想の共同体が出現するだろう。誰もがそう思っている。だから、皆、愛を求め、赦しの必要を訴える。だが、惜しみない無差別的な愛が愛の否定だったとしたらどうだろうか。徹底した赦しが、最大の拷問だったとしたらどうだろうか。

 モーツァルトの主要なオペラ、とりわけ最後の十年間に創られた七作品は、「愛」や「赦し」、あるいは「慈悲」を主題としている。七作品の中には『フィガロの結婚』『ドン・ジョヴァンニ』『コジ・ファン・トゥッテ』『魔笛』といったよく知られた作品がすべて含まれる。本書、奥村隆の『慈悲のポリティクス』は、モーツァルトの最後の七つのオペラを解釈しつつ、「愛」と「赦し」の可能性とその困難について考察している。モーツァルトのオペラ論として読んでも、本書は、まことに興味深い。前の作品の中で残された課題が、次の作品の中で乗り越えられるのだが、同時に、あらたな困難を生み出していく。その困難が、その次の作品で超克の対象となる。だが、それがさらに……。このようなダイナミズムが、実にスリリングである。

 いずれにせよ、本書の中心的な目的は、モーツァルトのオペラそのものの解釈にあるのではなく、そこから、社会哲学的な含意を引き出すことにある。私の考えでは、本書は、「愛」や「赦し」によって結ばれる共同体という像に関連して、特筆に値する三つの論点を提起している。本書の論述の順序通りの解説ではないが、この三つの論点をここで明確に浮かび上がらせておきたい。

 

1 無差別的・普遍的な慈悲の逆説的で残酷な効果

 普通は、普遍的な愛や無差別的な慈悲は、最高の徳であると考えられている。どんな罪を犯した者も赦す、寛大な君主によって統べられている共同体があったとしたら、それは、幸福な至高の共同体として思い描かれるだろう。あるいは、「私たち」と「彼ら」とを区別しない愛や慈悲を抱くことができたら、平和で親密な普遍的共同体を構築することができるだろう。だから、一般的には、無差別的な愛や慈悲は(いかにして)可能か、が問われる。

 しかし、本書は、そんな凡庸な問いを立てない。もし無差別的な愛や慈悲が実現されたとしたら、それはどのような世界なのか。その世界に人は耐えられるか。これらが本書の問いである。

 そして、奥村は、とりわけモーツァルトの最晩年の作品のひとつ『皇帝ティートの慈悲』の解釈を通じて、驚くべき逆説を抽出してみせる。無差別主義的な赦しは、厳罰以上に人を傷つける、と。そのような赦しは、赦される者の固有性を完全に剝ぎ取ってしまうから、というのが本書の説明である。赦しは、関係を修復し、また構築するものだと考えられている。しかし、赦しが最大化したとき――その範囲も寛容の度合いも極大に達したとき――、逆に、関係を完全に破壊し、相手に深い復讐心すら植え付けることになる。古代ローマの皇帝ティートの結婚をめぐる葛藤や嫉妬を描いた『皇帝ティート』は、赦しのこうした逆説を暴き出した作品である。

 私は、正直、本書のこのような『皇帝ティート』解釈に心底から感服した。私はずっと、『皇帝ティート』は、皇帝ティートの驚異的な徳を称賛するだけのつまらぬ作品、慈悲深い神々や君主を称えることを目的とする伝統的なオペラ・セリアへの回帰だと思っていた。数々の実験的なオペラを創ってきたモーツァルトが、どうして、最晩年に、こんな凡庸なオペラを作曲しなければならなかったのか、と。モーツァルトは、『皇帝ティート』と『魔笛』を並行して創っている。私は、大きな仕事を二つ同時進行させると、モーツァルトのような天才でさえも、失敗することがあるのだ、などと思っていた。

 だが、本書によって、こうした理解が完全に誤っていたことを知った。『皇帝ティート』は、オペラ・セリアへの回帰ではない。回帰の外観をもっているが、その弁証法的な止揚である。このことは、『皇帝ティート』を、そのおよそ十年前の作品、はっきりとオペラ・セリアに分類できる『後宮からの逃走』と比べてみるとわかる。後者において、皇帝ティートに対応する役割を担っているのは太守セリムである。太守セリムも寛大にも赦しを与える君主だ。太守セリムは、赦される者たちの共同性から超然としており、その証拠に、彼は、作品全体を通じて、一度も歌うことはない(台詞だけの役である)。皇帝ティートは違う。彼は歌う。しかもときに、他の者たちとの重唱に加わる。本書に書いているように、こうした違いにははっきりとした意味がある。

 もう一言、付け加えておきたい。ここで奥村が、慈悲や赦しをめぐって論じていることと結びつく主題を、私は、本書と同じ「クリティーク社会学」シリーズの中の一冊、『経済の起原』で、「贈与」に関連させて考察している。一般には、贈与は、他者への好意や愛の表現だと考えられている。利己的な動機に規定されている商品交換のマイナスの効果を知る者は、しばしば、贈与に、そこからの脱出の可能性を探る。しかし、本書が慈悲に関して述べたのと類似の逆説が、贈与にもある。贈与は、他者との関係を豊饒化するとは限らない。むしろ、しばしば逆である。普通の贈与は他者を拘束し、ときには不幸にすらする。同じことは慈悲にも言える。その極限のケースを、皇帝ティートの物語をめぐって認めることができる。

 

2 愛に本源的に内在する葛藤

 特定の他者(たち)だけを愛するのは、偏狭な愛に見える。真の愛は普遍的な愛、無差別主義的な愛でなくてはならない……ように思えるが、しかし、誰をも差別なく愛するということは、誰も愛していないに等しい。したがって、真の愛は逆に、単一の固有の他者への愛でなくてはならない。が、これは、ほかの他者たちへの無関心か、または憎悪を含意してしまうので、限定的な愛、愛のポテンシャルの制限である。というわけで、われわれは振り出しに戻されてしまう。この愛のディレンマに対するまことに創造的な応答。これが、本書の第二のポイントである。

 愛の無差別主義的なアスペクトに特化し、このアスペクトを極限にまで押し進めたのが、言うまでもなく、『ドン・ジョヴァンニ』の主人公ドン・ジョヴァンニである。彼は、普遍的な愛を実行しているとも言えるが、しかし、それは、どの特定の女の固有の愛をも裏切るものでもある。だから、結局、ドン・ジョヴァンニは罪に罪を重ねていく。『ドン・ジョヴァンニ』の中で、ドン・ジョヴァンニには赦されるチャンスは何度かあった。とりわけ大きいのは、騎士長の誘いだ。しかし、ドン・ジョヴァンニは、すべての赦しを――厳密には自分が赦されることを――、徹底的に拒絶する。かくして彼は、最後に地獄に落ちる。

 このように、ドン・ジョヴァンニは、差別的な愛――特定の「あなた」への愛――に固着することを最後まで拒否する。その代わり、ドン・ジョヴァンニは自由である。彼は、特別な「あなた」にとっての特別な「あなた」というアイデンティティに釘付けにされないからである。キルケゴールによれば、ドン・ジョヴァンニは、誰でもない感性的存在であることによって、彼に出会うすべての女を輝かせることもできる。

 が、いずれにせよ、『ドン・ジョヴァンニ』で描かれているのは、赦しのない世界である。恩寵も寛恕も存在しない世界だ。このとき、共同体が成立しない。ドン・ジョヴァンニが死んでしまうと、登場人物たちは、たちまちバラバラになってしまう。彼らはただ、ドン・ジョヴァンニへの怒りによって連帯していただけだからだ。こうして、誰をも無差別主義的に愛する男がいる世界で、「私たち」と「彼ら」の境界を越える普遍的な共同体が実現するかといえば、まったく逆で、そこでは共同体そのものが解体してしまう。

 これと対照的なのが、『フィガロの結婚』の世界である。ドン・ジョヴァンニは、赦される資格を与えようとする提案をすべて拒否した。『フィガロ』には、赦す資格、赦す能力をもつ女が登場する。そして、実際、赦しが実現する。赦す資格をもつのは、伯爵夫人ロジーナである。彼女は夫に裏切られ、自分自身は完全に無実である。ロジーナも、夫を裏切っているのではないかと、(夫から)告発されるのだが、その告発は誤りだったことがすぐに判明する。ゆえに、ロジーナは純粋に無実である。この無実性によって、彼女(だけ)は、赦すか赦さないかを決定する資格をもつ。そして、彼女は夫である伯爵を、全面的に赦す。封建的な秩序の中で、彼女の主人であるべき人物を赦す。彼の存在そのものを赦すのだ。その「赦し」を媒介にして、すべての人が満足し、丸く収まる共同体が実現する。最後に共同体が雲散霧消する『ドン・ジョヴァンニ』とは正反対の結果である。

 愛には、対立する二つのベクトルが内在している。……

◇この続きは本書でお読みいただけます◇

 

 (おおさわ・まさち 社会学者)

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