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思想の言葉:野矢茂樹【『思想』2023年1月号 小特集|ウィトゲンシュタイン──『哲学探究』への道】

◇目次◇
 

【小特集】ウィトゲンシュタイン──『哲学探究』への道

思想の言葉 野矢茂樹
〈討議〉ウィトゲンシュタインを読むとはどういうことか 鬼界彰夫・野矢茂樹・古田徹也・山田圭一
表出と疑問 飯田 隆
形式と内容としての対象──『論考』的対象の形式主義的解釈の試み 荒畑靖宏
ウィトゲンシュタイン研究私記──『哲学探究』翻訳までの道 鬼界彰夫
進化と安定性──後期ウィトゲンシュタインの言語観 松阪陽一
意味は体験されるのか──『哲学探究』第一部と第二部の違いを考える 山田圭一
『哲学探究』研究解題 谷田雄毅
日本のウィトゲンシュタイン研究 谷田雄毅

思想対象としての20世紀中国──『世紀の誕生 ― 中国革命と政治の論理』序論(下)  汪 暉/丸川哲史訳

 
◇思想の言葉◇
 
『論考』と『探究』
 野矢茂樹


 二〇〇二年に『『論理哲学論考』を読む』を出し、二〇二二年に『『哲学探究』という戦い』を出した。さて、振り返ってみて、どうだろう。『論理哲学論考』(以下、『論考』)を読み解く作業と『哲学探究』(以下、『探究』)を読み解く作業は、そう、まったく異質なものだったと、とりあえずは言いたくなる。伝わらないことを承知でイメージだけ言えば、『論考』の場合はある一点から放射状にテキストを捉える感じであり、『探究』の場合は断片的な諸考察を一本の線でつないでいくという感じだった。

 まず『論考』から話そう。その一点とは、「操作と基底」である。ここから全体が捉えられる。そのことに確信をもてたとき、私は『論考』が読めたと思った。それは、私にとって大きな知的興奮だった。

 操作と基底について、少し説明しよう。事実の総体が、この現実世界である。事実から対象を分節化し、対象を語で表わす。その語を組み合わせて要素命題が作られる。要素命題は可能な事態を表現するから、要素命題の総体は現実世界を含む可能な世界のあり方の全体を表わしたものとなる。これが論理空間を形成する。そして論理はこの論理空間上での操作として捉えられる。例えば命題Aの否定は、論理空間上において命題Aが真となる領域以外の領域を取り出す、すなわち与えられた領域を反転させる操作となる。その操作が施される基底を形成するのが、要素命題である。

 一九一五年六月一日、ウィトゲンシュタインは草稿にこう記している。「私が書くもののすべてがそれを巡っている、ひとつの大問題―世界にア・プリオリな秩序は存在するか。存在するのならば、それは何か。」これに対する答えが操作ということから導かれる。基底となる要素命題は事実をもとに作られる。何が事実であるかはア・プリオリに決まることではない。だが、操作は何が基底であるかによらず定まる。論理の事例から離れてしまうが、例えば「裏返す」という操作は紙に対してであろうと、布に対してであろうと、表と裏がある物であれば、その表と裏を入れ替えることとして同じ操作とみなされる。だから、操作こそがア・プリオリな秩序を形成する。論理や数学がア・プリオリな秩序たりえているのは、それらが操作という観点から捉えられうるからなのである。ここに、『論考』の核心がある。

 それに対して基底となる要素命題は、何が事実であり、そこからどのような対象が分節化されるかに依存している。それゆえ要素命題の総体、すなわち「語りうるもの」の総体は、私がどのような事実を経験しているかに依存している。この点に、私は『論考』の独特な独我論の正体を見た。

 ヘソとも言うべき一点をつかんだときに『論考』の全体がほどけていく感覚は、この上なく甘美なものだった。だが、『探究』はそうはいかなかった。『探究』は『論考』よりも豊かなテキストであり、これを一点突破で読み切ろうとすると単調な解釈しか出てこないに違いない。

 二〇〇九年に出た Philosophical Investigations(4th edition)をもとに、二〇二〇年、鬼界彰夫による新訳が出版された。私はそれを手にして、久しぶりに『探究』を通読してみた。そのとき、「読めた!」と感じられたのである。それを導いてくれたのが第一〇六節だった。少し細かい話をさせてもらおう。

 鬼界訳は「ここでは、いわば頭を水面に上げておくことが難しいのだ」とある。原文は “Hier ist es schwer, gleichsam den Kopf oben zu behalten”である。従来の英訳は “Here it is difficult as it were to keep our heads up”となっていた。“den Kopf oben zu behalten”に対するこれまでの邦訳は、藤本隆志訳が「頭をもたげておくこと」、また、このドイツ語は「勇気を失わない」といった意味もあるので、黒崎宏訳は「勇気を持って」、丘沢静也訳は「勇気をなくさないでいること」となっていた。ところが、第四版の英訳では、“keep our heads above water”となっている。そして私は、それに従った鬼界訳を読んで、ストンと腑に落ちたのである。

 あたかも哲学問題という河童に足をつかまれ、水底に引きこまれそうになりながら、いや、その河童はウィトゲンシュタイン自身だろう。『論考』は世界、思考、言語、論理といったことの本質に向けて、深く潜っていこうとしていた。哲学の最深部をつかもうとするその姿勢は、おそらく『論考』の時期だけでなく、生涯にわたってウィトゲンシュタインを捉えていたに違いない。そんな自分自身を振り切り、なんとかして頭を水面に上げておこうと苦闘している。そんなウィトゲンシュタインの姿が見えたのだ。

 一例を挙げよう。言語使用を最も表面的に捉えるならば、音声や文字模様といったそれ自体は物理的なものをやりとりする活動と言えるだろう。そしてそのやりとりは規則によって規制されている。では言語使用の規則とはどういうものなのか。その規範的力は何に由来するのか。―われわれを水底に引きこもうとする声が聞こえてくる。だが、これに対して『探究』はこう答える。「規則は道標のようにそこにある。」(第八五節)道標は、言うまでもなく、木などでできた物体である。つまり、規則もまた、規則を表わした言語表現であり、音声や文字模様といった物理的なものにほかならない。例えば、「二重否定は肯定を意味する」という論理の規則を、『論考』は「二度反転すると元に戻る」という操作の本性として捉えた。それに対して『探究』は、「二重否定は肯定を意味する」という文字模様がどう使われるかを見よ、と言う。つまり、規則もまた言語使用の最も表面的なところで捉えられるのである。規則あるいは論理や意味といった、言語の本質の探求へと人を向かわせる概念を、「机」や「猫」や「朝食」といったふつうの語とまったく同じレベルで、しかもその最も表面的なレベルで捉える。私はここにウィトゲンシュタインの透徹した凄みを感じずにはおれない。

 最初に、『論考』を読み解く作業と『探究』を読み解く作業はまったく異なると書いた。だが、こうやって振り返ってみると、両方とも似たようなことをしているようにも思える。『論考』の場合は操作と基底という観点から読み解き、『探究』の場合は水面に頭を上げておこうとする苦闘という観点から読み解いた。どちらも、「畢竟如何」と問いかけて、全体を展望できる地点に立とうとしている。ああ、そうか。私はどうも迷宮を楽しむという姿勢に乏しく、展望台に立って見晴らすのが好きなのだ。

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