黒川みどり いま狭山事件を問うこと[『図書』2023年9月号より]
いま狭山事件を問うこと
『SAYAMA みえない手錠をはずすまで』(監督・金聖雄)は、狭山事件で犯人の汚名を着せられ、冤罪を晴らす闘いを続けている石川一雄さんとその妻早智子さんの日常を描いたドキュメンタリー映画である。それを改めて観て、二〇一三年の公開から一〇年、変わったのは登場人物が年齢を重ねただけであることに心が痛んだ。すでに事件から六〇年が経過しており、今もなお映画撮影時と同様、第三次再審請求の結果が出るのを今か今かと待ち望む日々が続く。
狭山事件とは、一九六三年五月一日、埼玉県狭山市で女子高校生が行方不明となり、警察が身代金を要求した犯人をとり逃がし、そのあとに被害者が遺体となって発見された事件である。当初から市内の被差別部落を中心に捜査が行われ、その住人であった石川一雄さんが別件逮捕された。地裁では死刑、高裁では無期懲役の判決が下され、一九七七年に最高裁で無期懲役が確定した。一九九四年に仮出獄となったのちも、度重なる再審請求が棄却され、逮捕時に二四歳だった一雄さんは、八四歳となった現在も冤罪を着せられたままの状態にある。
学生運動の “終焉” 後の一九七〇年代後半に東京に出て来て大学生となった私は、狭山事件の重要性は認識しつつも、そもそも運動自体との距離感があった。それゆえなかなか関わりを持てず、 “遠い” 存在のまま月日が流れた。日本近代史を専攻し部落問題を研究対象にするようになってからは、授業や通史を書く際に必ず言及してきたが、正面から狭山事件にとり組むようになったのは、二〇二一年一一月に石川夫妻と出会ってからのことであった。
一時間余りの限られた時間であったが、貧困のため学校に行けず小学校四年生から親元を離れて奉公に出たことや、獄中で看守から文字を学んだことなどをうかがい、ここにこそ “部落問題” が集約されているという思いを強くした。そこでもっと丁寧にお話をうかがいたいと思ったのが事のはじまりである。
二〇二二年七月二日からはじまった聞きとりは、部落解放同盟埼玉県連合会執行委員長であり部落解放同盟中央本部中央狭山闘争本部長として狭山闘争を牽引してこられた片岡明幸氏にリードしていただいて、できあがった原稿の確認も含めると十数回に及んだ。いつも定刻前から会場を準備して待ってくださり、長時間おつき合いいただいた夫妻のご厚意に応えるためにも、なんとしても狭山事件発生六〇年に間に合わせる必要があると思い、懸命にまとめ上げたのが『被差別部落に生まれて──石川一雄が語る狭山事件』(二〇二三年五月刊)である。
しかしながら、ふだん自分が属している世界の “外” にひとたび目を向けると、狭山事件は意外なほどに知られていないことを実感する。私が向き合う学生たちはもとより、世代を問わずまったく知らない人も少なくない。なんとなく耳にしたことがあるだけだったり、あるいは「知って」いても冤罪とは確信していない人も多い。
背後にあるのは、事件や運動をよく「知らない」こととない交ぜになった、運動に関わるセクトへの忌避感だったり、あるいは部落問題ゆえに関心が向かない、ないしは被差別部落から犯罪者が出るのはさもありなんとする差別的な認識だったりする。また権力の決定を追認することこそがいずれにも偏しない「中立」であるとの誤った認識も、問題への理解を妨げているにちがいない。映画に登場する、街頭でマイクを片手に訴える石川夫妻に目もくれず通り過ぎる人たちの姿は、まさにそうしたありようの一端を映し出したものにほかならない。
だからこそ今、そうした人たちにも理解の輪を広げるために、狭山事件をまず知ってもらうことが必要なのではなかろうか。これまでに狭山事件について書かれた本は、鎌田慧『狭山事件の真実』(岩波現代文庫、二〇一〇年)をはじめ多数あるが、私は、さらに石川一雄という一人の人間に徹底的に寄り添うことによって、この事件がまぎれもない冤罪であることがよりはっきりと見えてくるのではないかと考えた。
一雄さんは、生い立ちから、事件発生、逮捕、取り調べ、三二年に及ぶ獄中生活を経ての仮出獄後、現在にいたるまでのことについて、言いよどむことなく実に冷静にたんたんと歯切れのいい口調で、かつ誠実に答えてくださった。「過去を顧視しないのが持論」という一雄さんに、逮捕から「自白」にいたる経過など、思い出したくないつらいことも事細かに語っていただいたことは申し訳ないの一言に尽きるが、一雄さんの記憶はきわめて正確である。そこには、一点の曇りも偽りもない。
その語り口をできるだけそのまま活かしつつ、また、獄中で文字を獲得してから部落解放同盟機関紙『解放新聞』に頻繁に寄稿していた文章の一部をも合わせて紹介することにより、それを読んだ誰しもが、冤罪を確信してくれるにちがいないと私は考えた。
繰り返しになるが、一雄さんの話には一点の曇りも偽りもない。警察は、直前に起こった、幼児誘拐事件(吉展ちゃん事件)で幼児が殺害されてしまった失態の挽回をはかるために、自分の名前すら書けなかった一雄さんの「無知」につけ入り、兄が犯人だとだまし、虚偽の自白をさせて犯人に仕立て上げていった。権力が社会的弱者を標的にして平然と冤罪をつくり出したことは、一雄さんの一連の語りからも明白である。
一雄さんの両親は、事件発生時に夕食を共にしていた息子の無罪をいささかも疑っていなかった。一雄さんは、両親の墓前には、冤罪が晴れてからでないと手を合わせないと堅く決めている。その日を一刻も早く到来させることが、一雄さんの闘いの支えになっているようにみえる。
一雄さんは、「無駄な人生」と言えるのは獄中での文字を獲得するまでの五年間ぐらいで、それ以後は「幸せでもないけれど、みんなに応援してもらって、支援してもらってるっていうことについては、やっぱりよかった」という。支援者への感謝はもとより、自分を冤罪に陥れた人たちにさえ心くばりをするなど、その人柄は、やさしさ、あたたかさに満ちあふれている。しかし、そんな一雄さんにも、つらい時があるという。その気持ちは短歌に託して表現する。また、湧いてくる雑念を取り払うために、長時間の散歩に出ることもある。強靱な精神の持ち主である一雄さんは、そのようにして押さえがたい怒りや苛立ちを昇華させ、健康に気を配りつつ、日々闘いを続けているのだ。
映画でも語られていたことだが、一雄さんは自由に動き回る動物が好きだという。仮出獄による「自由」は獲得したが、今なお “本当の自由” は手にしていない一雄さんにとって、動き回る動物の姿は、自由への渇望をいささかでも充たしてくれるものなのかもしれない。映画のなかでは、冤罪が晴れたら、支援者にお礼を言いに回りつつ「 “狭山” と関係のないところにあちこち行く」のが夢だとも語っていた。一九九六年に早智子さんという人生の伴侶を得て以来、いつも二人三脚で歩む姿は微笑ましいものだが、一雄さんの日常には、やはり「狭山事件」がつねに入り込んでいるのである。
長い闘いのなかでは、ともすると石川一雄という存在が見えにくくなってしまっていたのではないかと思うことがある。しかしいうまでもなく、何にもまして最優先されなければならないのは、一雄さんの人権を救うことである。二四歳のときにかけられた手錠は、見えなくなっただけで外されたわけではない。一雄さんは、冤罪を背負わされ、さまざまな制約を課せられたままの状態にある。その痛苦がいかほどのものか、私たちはわが身に置き換える想像力を持たねばならない。私が今、事件でもない、闘争史でもない、石川一雄の半生を描いたのはそのためである。
歴史をふり返れば、一九一八年の米騒動の際には、政府は “よからぬ” 被差別部落民が米騒動の首謀者であるという宣伝を繰り返した。差別を利用して部落外の民衆と分断することによって、全国に及んだ米騒動の拡大を阻止しようとしたのである。今年一〇〇年を迎える関東大震災時の朝鮮人・中国人、社会主義者等の虐殺事件も、混乱に乗じて、民衆が持っていた差別意識を利用した権力が民衆を煽って引き起こした事件である。甘粕事件、亀戸事件は、権力が直接手を下して、社会主義者を葬り去った。それらはけっして過去にのみ起こりえた事件ではない。権力のチェックを怠れば、いつでもこうした事件は繰り返される。
狭山事件も戦後民主主義—高度経済成長のまっただ中で起こった。現在部落問題は、最も可視化されにくい問題の一つとなっていて、差別はないものとみなされがちである。しかし、実は結婚における排除をはじめとして、今なお私たちの社会のなかに深く根を張って入り込んでいる。かつて竹内好が言ったように、差別のなかにいながら差別をしているという自覚がないことが差別なのである(竹内「基本的人権と近代思想」『文化と部落問題』一九六〇年一二月)。
ふたたび社会的弱者が犠牲になることのないように、一人でも多くの人に事件を知ってもらい、関心を持ってほしい。一雄さん、早智子さんとともに、心から喜び合える日が一日も早く来ることを切に願う。そして次につくられる狭山事件のドキュメンタリー映画は、喜びを分かち合う場面で終わるものであってほしい。
(くろかわ みどり・日本近現代史)