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【追悼 大江健三郎さん】山内久明 光り輝く緑の大樹[『図書』2023年11月号より]

光り輝く緑の大樹
──個人的な追悼 断片

 

 一九五四年春、大学入学直後の駒場、ある日の昼休み、薄暗い教室に入ると、片隅にただ一人、リンゴを囓る色白の青年──それが大江さんとの出会いだった。話し出すと、文学に対する一途な思いと、全身に漲る無垢イノセンス)がオーラとなって伝わり、圧倒された。クラス雑誌に寄せられた自画像は、「若くして俗塵に染まぬ光り輝く精神の果物屋」。果物に惹き寄せられ、果実の恵みに浴した。

 大江さんの故郷は愛媛県喜多郡大瀬村(当時)。森と川のある「谷間の村」は地理的「周縁」に位置したが、大江作品の中で「魂のこと」と向き合うトポスとして拡大しつづけ、世界の「中心」の地位を獲得する。大江さんの故郷と私の故郷は、瀬戸の内海で結ばれている。『ヒロシマ・ノート』にはじまり被爆と核問題を語り行動しつづけた大江さんに対し、被爆者として私の感謝は尽きない。

 一九五四年秋の駒場祭における「クラス演劇」は大江健三郎執筆、志甫溥演出。当時の日本社会が戯画化され、第五福竜丸事件直後の「死の灰」に対する不安と恐怖が盛り込まれていた。年の暮れ近く駒場で高嶋勇が撮影した写真の一枚で、一本の木の幹の、放射状の枝の分かれ目に座り微笑む大江さんの姿は、大江文学の原風景に思える。

 大江さんは高校時代に渡辺一夫『フランス ルネサンス断章』を読み、仏文科に進むことを決めていた。私どもが駒場で教わった十数名のフランス語の先生方は日本の学界を代表する人々で、仏文科予備門で学ぶ気がした。他方で大江さんは深瀬基寛『エリオット』、深瀬基寛訳『オーデン詩集』、西脇順三郎訳『荒地』を熟読し、イギリス文学に通じていた。駒場で二年が経ち、四人の友人は大江=文学部仏文、高嶋=文学部英文、志甫=教養フランス、山内=教養イギリスと行き先が分かれたが、絆は持続した。

 学生時代、大江さんは詩作のほか小説や戯曲を書き、学内で入選を果たした。一九五七年「奇妙な仕事」で五月祭賞を得て、「飼育」で芥川賞受賞に到る前後の躍動は、創作のマグマが一挙に噴出した観があった。『死者の奢り』に一貫したテーマを、作者は「監禁されている状態、閉ざされた壁のなかに生きる状態」と要約した。戦争、敗戦、占領を経て、価値観が揺れ動き混迷する状況下での存在の不安を歴史認識として言説化する以前に、作者は直観的に把握し文学作品として表象した。「飼育」と『芽むしり仔撃ち』に共通するのは、本来的に無垢な子どもが、社会状況によって無垢であり得ない状態である。そこには、ブレイクの『無垢と経験の歌』の構図が図らずも実現されていた。

 大江さんが次々と作品を書き、日本文学の先頭を走りつづける様を私は日本の外から追っていた。ケンブリッジ大学の英文学部で博士論文を書きつつ、東洋学部(当時)で専任のレク)トー)として日本語を教えていた縁により、一九七三年四月、「第一回ヨーロッパ現代日本研究会議」(オクスフォード)で安部公房と大江健三郎を併せて論じた。(オクスフォードでは後に[一九八四年]、日産日本研究所において『新しい人よ眼ざめよ』を中心に話す機会も得た。)今日では大江作品の大多数が世界中の言語に翻訳されているが、一九七〇年代半ば以前には、『個人的な体験』(ネイサン、一九六八)、「飼育」(ボウナス、一九七二)、『万延元年のフットボール』(ベスター、一九七四)に限られた。一九七五年には、ケンブリッジの日本研究の学生を対象に、近代日本文学を概観する八回の講義で再度大江さんについて語った。

 大江さんの一通の手紙がある。日付は一九八一年六月一七日。「……友人の作曲家の武満徹氏が私の小説の一節をその英訳版の楽譜にそえたいといっています……それを……英語にしたい……左に添えますコピイの、赤鉛筆の囲いの三行分です。おねがいできぬでしょうか?」「私の小説」とは、「頭のいい雨の木レイン・ツリー)」で、手紙に貼り付けてあるのは、『現代伝奇集』一二ページのコピーである。拙訳に対するコメントが書かれたもう一通の日付は一九八一年七月一〇日。

 「雨の樹」の初演を聴いた大江さんは、「雨の木レイン・ツリー)を聴く女たち」(『文学界』一九八一年一一月号)を執筆。作品の冒頭近くに、「Tさん」の依頼による「Y君」の英訳が引用されている。計算し尽くした虚構に事実を吸収する、私小説を装う非私小説の一面が見られる。

 強い喚起力を持つ視覚的イメージが、武満徹の聴覚的想像力に訴えて「雨の樹」が作曲され、文学と音楽が共鳴した。ちなみに私は、一九八四年夏のオールドバラ音楽祭で、「雨の樹」を聴いた。霊妙な演奏が終わると、その年の「コンポーザー・イン・レジデンス」であった作曲者が促されて客席から立ち上がり、割れるような拍手の中で深々と頭を垂れた。その姿は、はるか日本の大江さんのイメージと重なり合った。

 ノーベル文学賞受賞に際しては、川端康成のことが強く意識されていた。「美しい日本」と「あいまいな日本」。伝統的日本美に自らを重ねる川端、他方、アジアを含む世界との関係において近代日本の「あいまいさ」ないしは両義性を直視する大江。川端は日本語で講演し、一節ずつサイデンスティッカー氏が英訳、対して自ら英語で語ることを選んだ大江。日が迫る中で原稿を受け取り、英訳を急いだ。のちに「海外作家との往復書簡」のために、一八通の大江書簡の英訳に携わり、ゴーディマー、ソンタグ、リョサ、オズ、ナジタ、チョムスキー、セン、サイードなどとの交信の仲立ちをしたことと併せて心躍る体験であった。

※講演の内容は『あいまいな日本のわたし』に収録

 第三部がノーベル賞受賞後に刊行された『燃えあがる緑の木』は、事実上、受賞前に完成されていた。『マビノギオン』に由来し、イェイツが「揺れ動く」に引用する「燃えあがる緑の木」をシンボルとし魂を救う教会の建設に関わる作品の最後で、「救い主」は非業の死を遂げるが、継承者たちは生き残る。

 上下二巻の『宙返り』の出版は、ノーベル賞受賞後しばらくは小説を書かずスピノザ研究に専心したいとした大江宣言と一見矛盾するが、この小説で扱われる「教団」の教義はスピノザに由来する。『宙返り』の「師匠パトロン)」は、教団急進派の暴走に責任を取り退位(「宙返り」)、「師匠パトロン)」の自死により消滅するはずの教団は、かつての「燃えあがる緑の木の教会」が引き継ぎ、教会と教団は合体、『宙返り』は『燃えあがる緑の木』にいわば長篇連作として連結される。

 二〇〇〇年一一月一六日、日本アジア協会例会(国際文化会館と共催、使用言語は英語)において、私は『宙返り』について話したが、当日最大の魅力は大江さん自身であった。会場で大江さんは、作品の宗教的テーマの材源がマルコム・ラウリー、井筒俊彦、ゲルショム・ショーレムのほかスピノザも含むことを自ら雄弁に語った。大江さんの絶妙なパフォーマンスは予期せぬ「宙返り」として来聴者から歓迎され大喝采を博した。

 大江さんは休みなく読み、考え、書き、行動した。大江さんの書く行為は、創作よりも創造ということばがふさわしい。現実をもとに創造された大江作品は、現実以上に広大で、現実以上に真実である。創造の原動力は構想し形作り異質なものを統合する想像力であるが、大江さんの想像力は、詩的想像力であると同時に実践的想像力でもあり、文学と思想と行動は一体化する。「谷間の村」が神話化され、叙事詩とも呼べる一連の壮大な物語の中で、大江さんは「魂のこと」「救い」について問いつづけた。大江文学は真の意味での世界文学と言える。大江さんという光り輝く緑の大樹の根元の一本の草として、私は大樹に感謝するとともに、大樹の光が国境を越え、世代を超え、末永く伝わり、世界を照らしつづけることを信じる。

(やまのうち ひさあき・英文学者)


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