思想の言葉:酒井直樹【『思想』2023年12月号 特集|エドワード・サイード──没後20年】
【特集】エドワード・サイード──没後20年
制限,回避,認識
エドワード・サイード/岡崎弘樹 訳
アラブ近現代思想におけるサイードの位置づけ
──シリアの哲学者サーディク・アズムとの比較を中心に
岡崎弘樹
世俗主義
ル・アニジャール/山口渓 訳
フーコーは別にして
──「サイードと/のフーコー」再考
三原芳秋
「難民の土地」から「土地のなかの難民」へ
──『パレスチナとは何か』に見る非/人間存在と入植植民地主義批判
申知瑛/金友子 訳
故国喪失と抵抗
中村隆之
文化と世界市民主義
──エドワード・サイードと韓国
尹海東/姜喜代 訳
理論と歴史
──オリエントと西洋
劉禾/鈴木将久 訳
『思想』2023年総目次
歴史的虚構としての西洋
ミシェル・フーコーの著作には、素朴な西洋中心主義の表明と受け取られてもおかしくないような表現が数多く見られることはよく知られています。「西洋では」、「我々の社会では」、「全西洋史を通じて」あるいは「西洋の伝統によれば」といった、ほとんど不用意とも思える表現が、とくに後期の講演や著作に、何度も表れていることを指摘する読者は少なくありません。著者自身を「西洋人」と措定することにはどのような権力の働きが隠されているのか、「西洋」とはどのような様態で現出する事態なのか、そもそも「西洋」あるいは「ヨーロッパ」とは地理的場所を示す名辞に過ぎないのか、それとも自らが背負う歴史的宿命の附票なのか、といった一群の問いが喚起されてしまうことに、彼はまるで無頓着でいるようにさえ見えるのです。狂気と正気の制度化、人口という集合の措定、更には学問・訓練という権力の遂行の多様性と錯綜性に、あれだけ緻密で示唆的な分析を施したこの歴史家・哲学者が、一旦「西洋」あるいは「ヨーロッパ」となると、あたかも西洋なる社会集団や伝統が実体的に存在するかのように、自らを「西洋人」と称して訝らないのでしょうか。
しかし、彼が「西洋」なる位置画定について全く疑念を抱いていなかったということもできません。例えば「哲学」と呼ばれてきた学問の制度と「西洋」の間に相互依存の関係を察知し、哲学という知の探究の様式と西洋人あるいはヨーロッパ人という文明的・人種的・政治社会的な同一性が相互に癒着するものとして受容されてきた歴史を、彼が知らなかったわけではありません。繰り返し、「哲学の終わり」と帝国主義支配に特徴づけられた近代世界の終わりとを、彼は重ね合わせて論じています。にもかかわらず、ギリシャ・ローマ古典の取り扱いに典型的に表れているように、自らを「西洋」に位置づける彼のやり方には過去の通俗的な西洋観を不用意に肯定しているのではないかという疑惑を誘うものがあります。
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私がフーコーに最初に出会ったのは、『オリエンタリズム』出版の一〇年ほど前で私はまだ学部生でした。一九六八年のパリの五月革命でフーコーがもてはやされたという噂は聞いていましたが、彼がどのような思想家でありどのような政治的立場をとったかについてはほとんど何も知りませんでした。たまたま彼が講演をするというので、東京にある大学構内に指定された大教室に行って、聞いたというよりフーコーを眺めた、というのが適切でしょう。その前年にフランス語を第二外国語として学び始めたばかりの理科系の新米学部生が、同時通訳なしの彼の講演を聴講しようと思い立ったのはどのような理由からかは今でも思い出せません。薄暗い大教室で紹介者(おそらく渡邊守章氏)の紹介で一段高い舞台に登場したのがミシェル・フーコーでした。明るい空色のスーツにピンクのネクタイそしてお馴染みの綺麗に剃り上げられた頭といった、それまで大学教授とか知識人一般の像とは大きくかけ離れた姿で彼が現れたことは、半世紀以上経った今でもありありと覚えています。ときどき紹介者が簡単な説明を入れる以外は、通訳なしのフランス語の講演で、一体、私が何を理解したのかは未だに全く不分明です。
にもかかわらず、言わば逆立ちしたトラウマを私は受けました。トラウマというと否定的な意味での衝撃・外傷ですが、この場合、肯定的な意味での外からやって来た衝撃でした。しかし、この私を襲った突然の衝撃が何であったかを、当時も今になっても十分に理解したとは言えないでいます。それは半世紀以上にわたる謎解きの始まりを告げる、未だに結論に至らない、奇妙な葛藤の端緒でした。
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フーコーから多くの示唆を受けて書かれたエドワード・サイードの『オリエンタリズム』が一九七八年に刊行されたときには、この書物のもつ衝迫力に私は圧倒されました。ただし、いわゆる人間主義からの脱出などのフーコーが携わった近代的知に関わる理論的課題にはサイードはあまり拘泥せず、自由主義や新自由主義の運用する知の管理の体制に取り込まれないための配慮をめぐる論争にも余り関心を示さなかった代わりに、彼は「ヨーロッパ」と「非ヨーロッパ」あるいは「西洋」(オクシデント)と「東洋」(オリエント)の対比をめぐる権力の動き・働きについて素晴らしい考察を提供してくれたのです。「西洋」にとっていかに「東洋・東方」(さらに「アジア」)が重要かを、執拗に解析したこの書物を耽溺するように読みつつ、しかし、私には「どうにも解せない」という感覚を拭い去ることは最後までできませんでした。というのは、サイードは、自らを「ヨーロッパ」の末裔と自認するフーコーを含めた知識人達に対して、「西洋人と自認すること」と知識の生産のあり方をめぐる鋭い問いを投げかけているように思えたからです。
当時私は「地域研究」を学び始めたばかりの大学院生で、『オリエンタリズム』に書かれた西ヨーロッパや北アメリカで制度化されてきた中東研究をその主たる標的にした分析が、私が専攻していた北東アジア研究にも適応可能であることは一目瞭然だと感じていました。それはサイードの考察が、知識の生産の制度性を問うものであり、学問制度としての「地域研究」を真っ向から問題視するものだったからです。通常、地域専門家は自分が専門とする地域に現出する事象に注目しそのような事象をできるだけ正確かつ客観的に把握しようと努めますが、観察や認識の手続きそのものがはらむ様々の難題を反省的に吟味することはほとんどありません。全く異なった地域、住民、文化を扱っているにもかかわらず、北東アジア研究が同じような手続き・意向・態度を知らず知らずのうちに身につけてしまっていて、そもそも既存の知識生産の仕組みを無反省に受容してよいのか、といった初歩的な懐疑にさえ地域研究専門家は悩まされているようには見えなかったのです。『オリエンタリズム』で具に指摘されているように、中東研究の基調低音は明らかに「ユーロセントリズム」(西洋中心性)で、この点は日本を主題とする地域研究でも全く変わりませんでした。
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『オリエンタリズム』は、このような「東洋」(オリエント)がどのように形成されてきたかを綿密に分析した画期的な書物でした。もちろん、「東洋」という言葉の過剰限定された(overdetermined)多義性は初めから俎上に上がっていました。少なくとも学問としての「オリエンタリズム」(東洋研究)に関する限り、「東洋」とは「セム人の宗教」(主にユダヤ教、キリスト教、イスラム教)が支配的な地域と「セム人」と呼ばれるユダヤ人やアラブ人などを比較対照しつつ、キリスト教徒からなるヨーロッパ人を分離・画定しようとする議論に起源をもつもので、一八世紀以降に「ヨーロッパ」が古代ギリシャ以来一貫して継続する文明として本質化・実体化される(すなわち西洋史というジャンル・学問様式が成立する)につれ、セム人をヨーロッパ人から分離する学問分野として組織されることになります。
やがて「東洋」は、北アフリカや南西アジアだけでなく、南アジアや東南アジア、北東アジアをも広く包括する用語となり、東洋(さらにアジアも)という用語の多義性はますます野放図になってゆきます。
そこで「オリエンタリズム」における東洋(とアジア)のもつ過剰限定性はどうしても避けられない問いとして登場してきます。
「東洋」は常に「西洋」に対比されていますが、そこで比較対照の仕組みが焦点とならざるをえません。「オリエンタリズム」(東洋研究)においてまず注目されるのは、「東洋」とそこに住む人々(東洋人)と彼らの文化・経済・社会に関わる営みでしょう。東洋研究者(オリエンタリスト)は、目の前ですでに可視化されている東洋と東洋人を観察し記述し解析します。この時、東洋研究者自身は不可視であることに注意しましょう。彼らは観察者の位置に立ち、目前に置かれた対象の位置を占めることはなく、直接には見えないのです。すなわち、東洋研究者は自らを東洋の外に置き「見えないところ」に定位します。のちにヨハネス・ファビアンが文化・社会人類学について詳しく述べるように、東洋研究者は東洋人と「共在する」(coeval)、つまり、「同じ場所にいることによってお互いが相互に見えている」ことはないのです(1)。サイードが解明しているように、東洋研究者は東洋に対して「超越的」(transcendent)な位置に定位するのです。そこで「東洋」と「西洋」は、一方が他方から区別されつつ比較される時、二つの異なった次元に同時に置かれることになります。一つには、共存する複数の対象として目前にある対象として同次元で可視化されますが、他方、「西洋」は「東洋」とは違った次元に置かれ、西洋は東洋に対して「超越する」ことになり不可視のものとして提示されるのです(2)。西洋は可視化されていると同時に不可視でもあるのです。
「東洋」が実体的に可視化されて措定されるのに対して、「西洋」は不可視の位置として虚構され、構想されることになります。つまり、西洋は東洋とは異なる立場として構想(想像)されることになります。しかし、「西洋の虚構性」によって、西洋が幻想に過ぎないあるいは不在であると言いたいわけではありません。ここで、虚構とは、絶えず構想力によって投資・願望の対象として措定される何かなのです。
ここで開示されるのは、まず(1)東洋と西洋の対比の認識論的構造であり、さらに(2)東洋なる指標が過剰な多義性を持つにもかかわらず、なぜ現在に至るまで広く用いられているのかについての歴史的説明でしょう。この二点について、もう少し詳しく考察してみましょう。
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第一点について言えば、東洋研究者にとって、東洋はもっぱら知的な対象です。実際には原住民との聞き取りや会話がなければ全く研究を行うことができないにもかかわらず、東洋研究では東洋研究者が東洋人の見解を聞くことは建前として予想されていないのです。なぜなら、それは西洋が東洋に超越するからであって、オリエンタリズムの言説においては、東洋には自己を説明する資格も自分達の意思を表現する理性的な能力もないとされているために、西洋によって代弁してもらわなければならないことになります。東洋研究者の任務は、東洋人が拙く非合理な言葉で語る事態を解釈し合理性の言葉で言い直し、東洋人に代わって語ることなのです。建前としては、東洋研究者は、東洋をもっぱら認識における受動的な客観として定立するとともに、自らを能動的な主観と画定します。その結果、東洋研究者は、東洋をしばしば訪問して調査し、東洋の文献を読み、東洋の古典に習熟しているにもかかわらず、彼は東洋に帰属することもないし自分が東洋人であると自認することもありません。西洋は東洋から分離されていて、彼はあくまで西洋の側に位置し、彼の提示する東洋に関する見解は、東洋を代弁するかのように見えても、飽くまで西洋の見解です。このように東洋研究者を通じて、西洋が東洋について語ることになるのです。
したがって、地理的な地域としては東洋と西洋は、同じ次元に併存する対象かもしれません。地理的指標である限りオクシデントは地球上の一定の領域に過ぎずオリエントも一定の領域である点で、同次元に併存します。ところが、認識上の関係としては、西洋は東洋を管理し統御し解釈する超越する主体の立場を独占的に占めるのに対し、東洋は西洋の眼差しの下にある対象に過ぎません。西洋は、地図の表面の分布した「地域」ではなく、そのような地域の分布を上空から眺める超越的な視座、地上の表面を俯瞰する地図上には決して記述されない不可視の場所に位置づけられることになるでしょう。エドワード・サイードによれば、東洋研究の言説としての「オリエンタリズム」とは、このように、西洋が自らを東洋から分離ししかも東洋を代弁するという、認識論的な構造をもった言説の組織ということになります。西洋は、このように東洋を客観として措定することによって、自らを東洋から分離し超越する主観として虚構するのです。しかも、虚構性として、西洋は歴史的現実を形作ります。
さらに忘れてはならない点は、このようにして出来上がったオリエンタリズムの言説は、決して体系的な整合性を備えているわけでも予定調和的な自律性を与えられているわけでもありません。そこら中に矛盾と非整合性が隠れていて、オリエンタリズムは絶えず自己解体と自己修復を繰り返す歴史体としてしか存在できません。しかも、西ヨーロッパや北アメリカとして限定された地域としての西洋にだけ限られたものではなく、東洋にもアジアにも普及し浸透してゆきます。
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第二に、東洋を主題とするオリエンタリズムは、一見すると東洋への興味に導かれているように見えて、その原動力が西洋の自己画定の願望にあることが解ってきました。東洋研究で暗黙のうちに追求されてきたのは、いかにして西洋の同一性を樹立するかという課題なのです。なぜなら、西洋とは、西洋ではないものとの対比によってしか画定できない文明、文化、民族、人種のことであって、東洋とは西洋を対-形象的に同定するための対称項に過ぎないからです(3)。別のところでスチュアート・ホールは東洋の代わりに「残余」(the Rest)を挙げて、「西洋と残余の言説」を問題にしましたが(4)、「東洋」の代わりに残余をもってきた方が事情は解りやすくなるかもしれません。というのも、「西洋」の自己画定の願望は、「西洋でないもの」を隔離することによって西洋の輪郭を決定し、自分達が「残余」ではないことを確認したいとする線引きあるいは境界設定の欲求として展開し、そこで求められているのは西洋が本来的に残余とは異質であるというほとんど脅迫感と化した思い込みを確証することだからです。一五世紀末に始まった近代植民地主義は、西洋と残余に二分された近代の国際世界を生み出しましたが、西洋人にとっての西洋とは、自分達が近代国際世界の中心を占めているという保証なのです。つまり、「オリエンタリズム」とは、近代国際世界特有の歴史的産物に他なりません。
この点は東洋研究の一環とされる日本研究でも変わりません。戦後に制度化された地域研究としての日本研究の古典とされている『菊と刀』では、日本社会の特殊性は西洋のそれとは全く相容れないものであり、西洋社会の思い込みで日本人の行動を予想すると「大変な間違いをしでかしてしまう」という警鐘から、著作全体の構想が打ち出されています。第二次世界大戦中の諜報活動の成果である『菊と刀』がもった衝撃力は、「西洋」と「東洋」の対比の一例として日本という地域を取り上げたこの著作の「国民性研究」(national character studies)としての性格に由来するといってよいでしょう。
このルース・ベネディクトの著作を読んだ多くの日本の研究者が、著者の日本文化の解釈に反論する形で彼らの不快感を表明しました。ところが、彼らの日本論では、「西洋」と「東洋」の二項対立を暗黙に受け容れてしまっていて、「オリエント」(東洋)はそもそも「オクシデント」(西洋)とは全く異質の社会を作っており、そこに住む住民は異なった文化を生き、異なった伝統を担っており、日本のような東洋の文化を記述するには、西洋対残余という二極構造の対比を形作っている基本図式に依存する必要があり、「西洋」と「東洋」の分離は寧ろ称揚され内面化され、当然視されてしまっていました。やがて、一九六〇年代になると、日本文化研究は「国民性研究」の線に沿って流行し、「日本人論」が大繁盛したことはよく知られています。日本人論を書いている日本人研究者自身は、『菊と刀』の西洋中心主義を論難しているつもりでいたのでしょう。しかし、日本(東洋の一例)を本質化することによって、実は西洋の本質化に与していたわけで、ここには「文明論的転移」の典型的な例が見られます。
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『オリエンタリズム』という著作は、もちろん、東洋研究のもつ西洋中心主義への周到な批判を成し遂げています。しかし、『オリエンタリズム』で展開されているのは決して反西洋の議論でも東洋擁護の議論でもない点は改めて確認しておきたいと思います。東洋研究の言説の周到な分析を通じてサイードが提示したのは、西洋中心性の議論は、西洋と東洋、あるいは西洋と残余の対比構造に依存せざるを得ず、対比される文明、文化、民族、人種の各々を本質化・実体化し、それぞれがあたかも何千年にも亘って永続する実体であるかのように想定することがないときには維持できない点でした。つまり、西洋中心主義とは人種主義に他ならず、人種一般の本質化は一つの人種の本質化だけでは達成不可能です。人種主義は、人種や民族の違いに固執する言説であり、他の人種の本質化を通じてしか成就できないのです。
こうして見てくると、直ちに分かるのは、日本人論や日本文化論のような、日本文化や日本民族を超歴史的な実体として想定する議論が、実は西洋にその対称項として依拠している点です。日本人論が国民性研究への反動でありつつ国民性研究の継承であったように、日本人論は「オリエンタリズム」の継承でもあったことが解ってきます(5)。『オリエンタリズム』は西洋中心主義だけでなく、日本人論に代表される日本文化論を含む民族や文化を本質化・実体化する人種主義をも、図らずもその批判の射程に収めていたのです。
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サイードは、周到に、自らが「反・西洋主義」に陥らない西洋批判のあり方を体系的に模索していました。知識と権力の作動を周到に分析するその方策は、当然のことですが、フーコーが切り開いた地平にあり、たまたまフーコーの最初の日本訪問以来一〇年近く彼の著作を読み続けていた私にとって、サイードの見事な応用の手腕に瞠目させられたにしても、このような種類の分析そのものに驚かされる事はありませんでした。むしろ私が今でも忘れられないのは、数少ない地域研究者を除いて、地域研究に関わる者の圧倒的多数は『オリエンタリズム』から衝撃を受けた様子が全くなく、彼らはフーコーもサイードもあたかも存在しなかったかのように、従来の地域研究を坦々と続けていたことでした。
さらに、『オリエンタリズム』はフーコーの存命中に出版されているわけですが、残念ながら、彼がこのサイードの著作を読んだかどうか私は知りません。
冒頭で述べたように、サイードの西洋中心性批判は、ギリシャ・ローマの古代から二〇世紀の現代に至るまで西洋/ヨーロッパなる伝統を恰も鵜呑みにしてしまっているかのように見えるフーコーの議論にどうかかわるのでしょうか。
初めてフーコーに出会った頃、私は当時「自己否定の論理」と通称されていた議論に捉えられていました。フーコーが「自己否定の論理」と通底する議論をすでに展開していたと主張するつもりもなければ、すでに彼が『オリエンタリズム』が提示した「西洋」への問いの答えを準備していたなどと強弁するつもりもありません。しかし、一九六〇年台末から現在に至る私自身の歩みを考えてみると、私が彼の著作に惹かれ続けたこととサイードが提出した「西洋」をめぐる問いとが、全く無関係であると考えることも困難なのです。
現時点で、私は結論を避けたいと思います。むしろ、亡くなる以前の数年間のフーコーの仕事の中に西洋中心性批判に対する応えを見出す潜在性を放棄しないまま、この小論を閉じることを許してください。
(1)Johannes Fabian, Time and the Other: How Anthropology Makes Its Object, Columbia University Press, 1983.
(2)Edward W. Said, Orientalism, Vintage Books, 1979, p.97.
(3)対 - 形象化(co-figuration)については、拙著『日本思想という問題──翻訳と主体』(岩波書店、二〇〇七)の序論を参照してください。
(4)Stuart Hall, “The West and the Rest: Discourse and Power” in Modernity: An Introduction to Modern Societies, Stuart Hall, David Held, Don Hubert & Kenneth Thompson eds., Blackwell, 1996, pp.184-227.
(5)Afterword, in Orientalism, op. cit., pp.329-52.