『破果』訳者あとがき=小山内園子
訳者あとがき──小山内園子
果実の旬は短い。時季を逃せば、みずみずしさや色彩は噓のように失われ、変質する。
ある日、冷蔵庫の野菜室を開けてハッとする。頂き物の桃を、食べきれずに放置していた。薄暗い空間の奥で、果実はすでに原形をとどめていない。茶褐色のどろどろした物体は、鼻を刺す悪臭を発している。
喪失をまざまざと見せつけられる瞬間。失われた時間。腐り、崩れ、扱いに困るものになり果てたその物体を見たときの感覚が、物語の始まりだったと作家は語っている。
腐り、崩れ、扱いに困るものとなった命を前にして呆然と座り込んでしまった作家の感覚は、「老人」で「女性」で「殺し屋」という異色の主人公誕生へとつながった。
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本作は、ク・ビョンモの長編小説『破果』の全訳である。二〇一三年に発表されたが、当初はそれほど大きな話題にならなかった。それが刊行から数年を経て、突如SNS上に主人公・爪角(「チョガク」には、韓国語で「破片」「かけら」の意味もある)のキャラクターを賞賛する声が上がり始め、二〇一八年に改訂版が刊行された。背景にあったのは時代の変化だ。世界的な#MeToo運動の盛り上がり、韓国フェミニズムの勃興の中、「こういう女性の物語を読みたかった」と、いわば読者に召喚されるかたちで爪角は再登場した。著者によれば、改訂にあたって大きなストーリーラインを変更することはなかったが、文章を練り直し、より具体的なシーンも追加したとのこと。日本語版の翻訳には、その二〇一八年発行の改訂版を使用した。
六五歳の誕生日を迎えたばかりの主人公・爪角は、一見小柄で平凡な老女でありながら、実は四五年のキャリアを持つベテラン殺し屋だ。誰かにとっての駆除すべき害虫、退治すべきネズミを消す請負殺人は「防疫」と呼ばれ、彼女はかつて、防疫業界で名を知らぬ者のいない存在だった。迅速、正確にターゲットを仕留める高い技術と、人の命を捻りつぶすことに一かけらの逡巡も後悔も抱かないプロ意識。自分の胎内にいた子の父親も殺めた彼女にとって、ターゲットはもとより、遺族の人生など眼中にはない。
そうだったはずが。老境に入って、爪角の歯車は少しずつ狂い始める。身体がいうことをきかなくなったのは致し方ないとしても、心までもが、いうことをきかなくなる。最低限の荷物しか置かなかった部屋で捨て犬を飼い始め、よろめく老人に手を貸し、ターゲットを苦しめずに殺す方法に頭をめぐらせる。そして、とうの昔に捨て去ったはずの恋慕に近い感情までもがよみがえる。
そんな爪角になぜか敵意を剝きだしにするのが、同じ防疫エージェンシーの若き殺し屋、トゥだ。トゥは彼女が情をかけたものを次々に破壊しては挑発する。その真意に気づけないまま、ある事件をきっかけにして、爪角はトゥと人生最後の死闘を繰り広げる──。
二一世紀に入って二〇年以上経つのに、高齢であること、女性であることは日韓を問わず「弱み」のままだ。「高齢×女性」ならなおのこと。「弱者に配慮を」と言いながら、その一方で「生産性がない」「有用でない」と切り捨てる社会の態度はデフォルトになり、ときに当事者自身も、そうした位置づけを内面化している。
だが、もしそんなスティグマを覆せるだけの力、たとえば「たぐいまれなる殺人技術」を備えていたら? 典型的な老害を垂れ流す人物を一発で仕留め、女と見れば舐めてかかるターゲットを有無を言わさず斬り捨てる爪角の姿は、若干語弊はあるが「爽快」である。不正義を呑みこまざるを得ない日常に、ある種のカタルシスを与えてくれる。この爪角のキャラクターに魅せられる読者は多く、改訂版刊行から五年近く経ついまも、ネット上では「映像作品にしたら誰を爪角役にキャスティングするか」が定期的に話題となる。訳者が確認した範囲では、イェ・スジョン(性的暴行を受けた高齢女性の闘いを描く映画『69歳』主演)、ユン・ヨジョン(映画『ミナリ』で第93回アカデミー助演女優賞を受賞)が有力候補だ。最近ではさらに、「少女時代を演じるのは誰にするか」(キム・テリ(映画『お嬢さん』主演)を推す声も)まで話が及んでいる。
映像で見たい、実写で物語を味わいたい、と読者に思わせることからもわかるように、本書はエンターテインメント性を備えたノワール小説である。だが、本文を未読の方にあらかじめお伝えしておくと、結末が知りたくて一気読みできるほどライトな読み心地ではない。理由の一つは、ク・ビョンモの独特な文体にある。彼女は、「読みやすくてわかりやすい文章」に、あえて距離をとる作家として知られている。
「文章に関して心に決めているうちの一つは、〈読みやすくしない〉ことだ。目的地までスーッと通じる高速道路を行くのではなく、でこぼこした砂利道を案内すること。邪魔をするような文章で読者の行く手を阻み、疾走し続けられないようにするのが目的だ。ずいぶんひねくれたやり方のようだが、それ以外、可読性という神話に抵抗する手段を思いつかない」
(中央日報日曜版『中央SUNDAY』二〇二〇年五月二三日より)
だから、彼女の作品世界を構成するのは、まるで壁を伝う蔦のように伸びていく、長く仔細な文章である。文章でキャラクターを撫で回し、その人物の到達と限界、できることとできないことを立体的に浮かび上がらせる。爪角は回し蹴りやナイフ使いは爽快でも、一方で老眼に難儀し、関節の痛みに涙を落とす。わかりやすさの対極にある文章は安易な思い込みを寄せつけず、それによって読者は、登場人物それぞれの人生の重さを、具体的に読み取ることになる。
もう一つ。作品を一つのジャンルに閉じ込めない作家の姿勢も、物語に奥行をあたえているだろう。先にノワール小説と紹介したが、実はそう言いきってしまうのにも抵抗がある。たとえば、朝鮮戦争後の韓国を背景にした爪角の少女時代のパートは、大河小説の佇まいだ。実際、韓国の読者からは、ミン・ジン・リーの小説『パチンコ』(池田真紀子訳、文藝春秋、二〇二〇年)との共通点を上げるレビューも上がっていた。
二〇〇八年のデビュー後、ク・ビョンモは年一冊以上のペースで新刊を発表しているが、いずれもジャンルの境界を軽々と超える作品である。幻想と現実がわかちがたく結びついた世界──「比喩が禁止された都市」や「隕石が衝突した後の地球」や「子供を三人もうける約束で安く利用できる公共住宅」が舞台とされ、「魚のようなエラを隠して生きる少年」や「傷を治癒する翼を持つ翼人」や「一七歳の少年の姿をしたロボット」が登場する。文芸評論家のファン・グァンスは、彼女のそうした作風をこう語っている。
「現実から一歩も抜け出せない人々が直面する苦痛に端を発しているという点で、決して荒唐無稽な想像の産物ではない。〔中略〕だからそれは、むしろリアリズムの深化に近い」。
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とはいえ、本作は他の作品に比べて比較的文章が短く、作家の想像力はひたすら「老いと向き合う人生」に集中している。翻訳作業で一番の阻みとなったのは、むしろ訳者自身の固定観念だった。
「老いた女性」という設定にふと浮かんでしまう、昔話のおばあちゃんのような言い回し。爪角が意図して老婆を演じる場面を除き、極力そうした先入観を排したつもりだが、どこまで成功したかはわからない。もしそうした残滓があるとすれば、それはひとえに訳者の未熟さによるものである。
言葉選びだけでなく、高齢女性の心理への固定観念があったことを告白しておく。爪角がカン博士に寄せる感情について、当初訳者は、爪角がカン博士にリュウの面影を見たのだろうと考えていた。でなければ、我が子ほどの相手に心揺れるだろうかと。だが、翻訳中何度か交わした著者とのやりとりで、それがまったくの誤解であることがわかった。実際に著者はインタビューで、二人の関係の設定についてこう語っている。
「高齢の男性と若い女性の関係を扱う作品はとても多いのに、どうして高齢の女性と若い男性となると、大部分が母子関係的な、ヒューマンドラマ的なものになってしまうのか。〔中略〕作家の仕事の一つが、既存の固定観念にずっと異議を唱え続けることだとすれば、そういうかたちで、一度異議を申し立ててもいいだろうと思いまして」
(ポッドキャスト『イ・ドンジンの赤い本屋』二七六回「破果with作家ク・ビョンモ 第二部」二〇一八年六月二七日)
タイトルの『破果』は韓国語で「파과」と書き、「傷んでしまった果実」と「女性の年齢の一六歳」の二つの意味にとれる。たとえ肉体は劣化しても、一六歳のみずみずしい心が消えるわけではない。ダブルミーニングでもあるタイトルは、老いへの偏見に向けられた強烈な一撃とも読める。
二〇二二年秋 小山内園子
(『破果』「訳者あとがき」より一部抜粋)
破果 2022年12月16日発売 |
稼業ひとすじ45年。かつて名を馳せた腕利きの女殺し屋・爪角(チョガク) も老いからは逃れられず、ある日致命的なミスを犯してしまう。守るべきものはつくらない、を信条にハードな現場を生き抜いてきた彼女が心身の揺らぎを受け入れるとき、人生最後の死闘がはじまる。大反響を巻き起こした韓国文学史上最高の「キラー小説」!
『破果』、待望の外伝!
破砕 2024年6月26日発売 |
『破果』の主人公、爪角(チョガク)がよみがえった。殺し屋になる前、まだ「普通」の生活を捨てきれていない、若き女性の姿で。師に見出され殺しの道を歩き出した爪角は、3週間、山に籠って最後の訓練に臨む。それは、ともすれば命を奪われかねない、死と隣り合わせの厳しい訓練だった。人を破壊する術を身につけることは、人として、女としての自分の一生も粉々にすること── 伝説の女殺し屋の誕生物語が、 ク・ビョンモ独特の濃厚な文体で生々しく描かれる。
<著訳者紹介>
ク・ビョンモ 구병모
作家。ソウル生まれ。2008年に『ウィザード・ベーカリー』でチャンビ青少年文学賞を受賞し、文壇デビュー。2015年には短編集『それが私だけではないことを』で今日の作家賞、ファン・スンウォン新進文学賞、2022年には短編「ニニコラチウプンタ」でキム・ユンジョン文学賞を受賞(以上、未邦訳)。邦訳作品に『四隣人の食卓』(書肆侃侃房)、『破果』(岩波書店)などがある。
小山内園子(おさない・そのこ)
韓日翻訳者。NHK 報道局ディレクターを経て、延世大学校などで韓国語を学ぶ。訳書に『四隣人の食卓』『破果』のほか、チョ・ナムジュ『耳をすませば』(筑摩書房)、カン・ファギル『大仏ホテルの幽霊』(白水社)、イ・ミンギョン『私たちにはことばが必要だ』『失われた賃金を求めて』(共訳、タバブックス)などがある。