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【文庫解説】太宰文学の最高峰──太宰治『晩年』より

この一冊によって、〈太宰治〉という作家は誕生した──。最初の作品集である本書は、太宰のエッセンスがすべて集まっているとも、彼の最高傑作とも言われる一冊です。文庫化にあたって、大著『太宰治論』を著された安藤宏氏に、丁寧な注と解説を付していただきました。はじめての方にも読みやすく、旧来の読者の方にはより深く、この作品を味わっていただければと思います。


観念に先取りされた「死」

 ちなみに太宰自身は『晩年』について、次のように語っている。

〈私はこの短編集一冊のために、十箇年を棒に振った。まる十箇年、市民と同じさわやかな朝めしを食わなかった。私は、この本一冊のために、身の置きどころを失い、たえず自尊心を傷つけられて世のなかの寒風に吹きまくられ、そうして、うろうろ歩きまわっていた。〉〈百篇にあまる小説を、破り捨てた。原稿用紙五万枚。そうして残ったのは、辛うじて、これだけである。これだけ。原稿用紙、六百枚にちかいのであるが、稿料、全部で六十数円である。〉〈けれども、私は、信じて居る。この短編集、「晩年」は、年々歳々、いよいよ色濃く、きみの眼に、きみの胸に浸透して行くにちがいないということを。私はこの本一冊を創るためにのみ生れた。きょうよりのちの私は全くの死骸である。私は余生を送って行く。〉

(「「晩年」に就いて」、「文藝雑誌」昭和一一年一月)

 別のところではまた次のようにも述べている。

〈「晩年」は、私の最初の小説集なのです。もう、これが、私の唯一の遺著になるだろうと思いましたから、題も、「晩年」として置いたのです。〉

(「他人に語る」、「文筆」昭和一三年二月)

 実はここにいう〈遺著〉という物言いにはよほどの注意が必要だ。多くの人はこれを作者自身の度重なる自殺未遂に結びつけて考えようとする。だが、創作の内容と実生活の「死」の意思とはあくまでも別物である。たしかに『晩年』は〈死のうと思っていた〉(「葉」、本書九頁)という一節から始まるし、作中にはさまざまな「死」のイメージが見え隠れするのも事実だろう。しかしそれらはあくまでも「生」を照らし出すために観念に先取りされたカタストロフィーなのであって、あえてそのような〝終末〟を言葉で演じてみせる自己劇化(ドラマ)にこそ、『晩年』の真骨頂があるのではないだろうか。この書を成した以上、残された時間はすべて〈余生〉に過ぎぬのだ、と言い切ってみせる、その強固な自尊心(プライド)をこそ読み取っておくべきなのではないかと思う。

 

〈自尊心〉のドラマ

 まことに〈自尊心〉の一語こそは『晩年』を貫くキーワードでもある。この世に生まれ落ちた以上、自分の真価を一刻も早く知りたい、自身の存在意義を確かめたいと願う、青春期固有の心情。それはまた、太宰がこの時期こよなく愛した、プーシキンの『エヴ ゲニー・オネーギン』のエピグラフ、〈生きることにも心せき、感ずることも急がるる〉という文言(本書四一三~四一四頁の注を参照)の意味するところでもある。

〈えらくなれるかしら。その前後から、私はこころのあせりをはじめていたのである。私は、すべてに就(つ)いて満足し切れなかったから、いつも空虚なあがきをしていた。〉

(「思い出」、本書六三頁)


〈彼等のこころのなかには、渾沌(こんとん)と、それから、わけのわからぬ反撥(はんぱつ)とだけがある。或(ある)いは、自尊心だけ、と言ってよいかも知れぬ。しかも細くとぎすまされた自尊心である。どのような微風にでもふるえおののく。侮辱(ぶじょく)を受けたと思いこむやいなや、死なん哉(かな)ともだえる。〉

(「道化の華」、同一五六頁)


〈いまのわかいひとたちは、みんなみんな有名病という奴にかかっているのです。少しやけくそな、しかも卑屈な有名病にね。〉

(「彼は昔の彼ならず」、同二七〇頁)

 このように、『晩年』における〈自尊心〉は、常に挫折か成就──ゼロか一〇〇か──の二者選択を迫られるまでにデフォルメされている。その意味でも〈撰(えら)ばれてあることの/恍惚(こうこつ)と不安と/二つわれにあり〉という「葉」冒頭のエピグラフ(ヴェルレーヌの詩集『智慧』「Ⅴの八」からの引用、本書九頁)は象徴的だ。未知の人生におびえる不安と、その不安をあえてみずからの特権として信ずる倨傲(きょごう)と。この両者を往復する精神のドラマは、まさしく青春の本質そのものでもある。
 だが、こうしたときめきは、〈自尊心〉がひとたび満たされてしまった瞬間、須臾(しゅゆ)にして霧消してしまうことだろう。それは永遠に未達の到達概念でなければならぬのであって、現実には常に挫折が宿命づけられている。「葉」に通底する〈憂鬱〉の感覚、「列車」の〈私〉の〈堪(たま)らない気持〉(本書一〇一頁)、「地球図」の〈シロオテ〉の〈かなしい眼〉(同一〇四頁)、「彼は昔の彼ならず」における〈へんな自矜(じきょう)の怠惰〉(同二七五頁)……。用いられる言葉、展開される主題はさまざまだが、それらを越えて、『晩年』所収作はそのいずれもが、〈ひしがれた自尊心〉(「道化の華」、同一三六頁)の表象としてあったのではなかったか。

(続きは、本書『晩年』をお読みください)

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