石川九楊 ひらがな語のスタイル[『図書』2024年9月号より]
ひらがな語のスタイル
──『ひらがなの世界』あとがきのあと
文字と声の二種混合言語・日本語
近年、ローマ字の表札をしばしば見かけるようになった。この家の住人は「田中」ではなく、「TANAKA」なのか。そうではないだろうと、いらぬ心配をしてしまう。流行、オシャレだからと、この表札を掲げながら、「名前は「えりか」や「エリカ」ではなく、また「江利加」でもなく、「絵里香」という漢字を書きます」と主張するのではないかという妄想も頭をもたげてくる。
こういう表記上の混乱が出現する背景には、日本語をめぐる理論と実体の乖離がある。
近代以降、西欧の「声の言語学」に幻惑されて、文字は音を表記するための記号にすぎないと無邪気に信じたところから、「TANAKA」の表札は生まれる。前島密の「漢字御廃止之議」に始まるこの誤謬の理論の傷痕は深くかつ罪深い。福澤諭吉、時枝誠記、二葉亭四迷、森鷗外以下、ほとんどの文化人がこぞって、不毛としかいいようのない「国語国字論争」に百年以上もうつつをぬかし、現在もなお、「日本語」と「国語」の仕分けをつけられないでいる。これとは異なり、文字のちがいは言葉のちがいと考える「絵里香」の思想は、日本語の実体から来る。
日本語の実体は、文字の漢字語と音のひらがな語という異質な構造からなる二種混合言語にある(カタカナ語については紙幅の都合上説明を略す)。
たとえば、「講演」という漢字語(漢語・中国語)。これは、「講和・講義」等の「〈講〉 字語族」と「演繹・演義」等の「〈演〉 字語族」をひきつれた文字=書字の連語(二字熟語)である。
この「講演」にほぼ対応するひらがな語(和語・国語)は「ときあかす」である。これは、「とく(溶く・融く・解く・説く)」などの「〈とく〉 音語族」と、「あか(明・赤・証・垢・灯・開・飽)」などの「〈あか〉 音語族」とが連合した発声=音語からなる。
黒船に脳天をかち割られた近代以降、西欧語をモデルに、日本語も「声」でできていて、文字はそれを書記したものにほかならないと信じ(こまされ)てきたが、そんなことはない。東アジア文明圏を構成している漢字語は、文字=書字からできている。
一方は文字(書字)からできている漢字語、他方は音(発声)でできているひらがな語という異質な二種類の言語の混合体──。ここに、日本語の特殊性がある。政治、宗教、倫理的表現は前者が、四季(自然の性愛)と性愛(人間の四季)については後者が担い、かつ精緻微妙な表現を発展させるという一筋縄ではとらえきれない魅力も日本語は宿している。
さて、それではひらがな語の姿はどのように成立したのだろうか。
文字とは書字の別名
漢字語「書」が名詞「書かれたもの」であると同時に、動詞「書く」でもあるように、文字とは書字の別名である。したがって、強権的に短期間で人工的に作られた場合は別として、自然発生的に長い時間をかけ、やがて時機が満ちて生まれた文字は、その本質にふさわしい姿をまとうようになる。
従来、ひらがなは次のように定義づけられてきた(松原茂「ひらがな」、小松茂美編『日本書道辞典』)。
漢字を一字一音にあてた万葉仮名(真仮名)を字母(字源)とし、その草書体である草をさらに書きくずして簡略化した文字
草書体の漢字をくずし、簡略化したとする通説は、表面をなでるばかりで、ひらがな(女手)の本質を突いていない。
東海の弧島に出現したひらがなという新しい文字は、二つの力(本質)からそれにふさわしい姿として生まれ出てきた。
音語にふさわしいスタイル
ひらがなは漢字とは異なり、西欧語にも似た表音文字(音文字)である。したがって、たえず内なる発音・発声とともに書き綴られることから、その音韻につり合う姿へと変貌をとげていく。具体的に母音の形状例をあげれば、「あ[a]」は、「〇」、「い[i]」は「―」または「||」、「う[u]」は「U」、「え[e]」は「」、「お[o]」は「O」へと導かれていく(これは学生諸君を相手に十年以上にわたる実験から得られた結果である)。
この力に導かれて、西暦九〇〇年頃には「安」が「あ」に、「以」が「い」、「宇」が「う」、「衣」が「え」、「於」が「お」へと変貌をとげ、そこで音韻との平衡状態に至った。通説のように「簡略化」なら、九〇〇年頃のひらがな(女手)成立以降もその後一一〇〇年の間にさらなる変容をとげたにちがいない。
連合と連結のスタイル
書道家はひらがなの特徴を次のように考える。
①「全体に流れるようなリズム感」として曲線美、流動美、軽快でリズミカル、②「漢字の草書化で極限まで簡略化した字形」として単純・簡略な字形、③「優雅・流麗で繊細な美女を見るような、美しい線」として、典麗、優雅、女性的と列記する(城所湖舟「かなの構造と特徴」)。
さらに「かなは単体を並べただけでは美しくありません。連綿することによって、はじめてかな本来の美しさが現れてくる」といわゆる「連綿」の美をつけ加える(同前)。これらもまた、ひらがなの本質に迫るものではない。
漢字を借用して記述されるしかなかった万葉仮名=万葉歌には、どうしても漢字の意味がしのびこまざるをえない。その濁りを排除した、大陸東方の弧島の音のみで自立した歌(和歌)をつくりたいという欲求が高まり、形の上でももはや漢字との臍の緒を断ち切って、自立した音文字であるひらがなは成立した。
ひとつは前述の音韻を含みこんだ形状の獲得。他のひとつは「あ」「う」「く」はもとより、一字では単語を形成することのできない発音記号のごとき音文字は、「あす」「うえ」「くり」など連合と結合の形状を構造的にそなえることによって、ことばと文を構成できる本格的な文字の段階に至る。漢字をくずして生まれた文字が上部にアンテナを立て、下部を次につなげる。象徴的に記すならば、「あ・お・す・ぬ・の・わ」などに露出する「」型の、もはや漢字に戻ることのないひらがな(女手)が生まれたのである。
書道家が力説する「流動・流麗」とは欧文筆記体にも共通する連続への指向であり、「連綿」とはその結合の形状である。「女性的」とは往時の「女手」という呼称に惑わされた幻影にすぎない。
掛筆・掛字・掛詞
西暦九〇〇年頃、ひらがなの形は整い、以降大きな変貌をとげることはなかった。形状は変化を止めたが、ひらがな語の表記はさらなる展開をつづけていった。ここからは『ひらがなの世界』に詳説したので参照されたい。
ある時、『高野切(第一種)』「古今和歌集」の最古の写本の冒頭歌を臨書していた時に、「ひと」部のところで「うーん」と唸って頭を抱えてしまった。これまで「ひ・と」と書かれているとばかり思いこんで何度も書いてきた文字が、一字で「ひと」とはっきり書いていることに気づいたからである。単位文字のひらがなの連合が極限にまで至り、ついに「ひと(一)」という一字化を遂げているではないか。このとき私は、がぜんひらがなの表現に強い興味を抱くようになり、その本質に思いを馳せるようになった。
「高野切古今和歌集」第一種「としのうちに」
ひとつは、掛詞の問題。
「掛詞・縁語が『古今集』に到って急激に盛んになった」「『古今集』において掛詞・縁語はもはや単なる技巧ではなく表記そのものである」(菊池靖彦「掛詞・縁語」)。
初の勅撰ひらがな歌集の「古今和歌集」の掛詞は、書字における掛筆を根拠に多出するようになったことを覚り、また『寸松庵色紙』中にしばしば登場する従来「脱字か?」と判断を保留されてきた書字法が掛字であることに気づいた。
このひらがな語の文字=書字のスタイルは、文化的なスタイルにまで影響をおよぼすことになった。二重に「掛ける」ことは一つを消す、隠す、欠落すること。京女や花町の「ヒ・ミ・ツ」という囁きの多用はここに根拠があろう。
さらに言葉は逆説的存在であるから、「衍字(不要な字)」でもあるかのように、余分に顕わす、増やす、重ねるスタイルも生むことになった。京女弁の「小さい小さい」「高い高い」など必ずしも必要とも思われない畳句の頻出もここから来るスタイルであって、従来多数の「衍字」が不審がられてきた『秋萩帖』の美学的根拠も明白になった。この「隠す」「重ねる」想像力の深み(察する・思いやる・慮る)(粋)の延長線に、車輪の形を描いて「わ(輪)」、葦の葉をひらがなの筆画に見立てた「葦手」という名の絵文字が生まれることになった。
このようにひらがな語は成長しつづけ、日本の文化的スタイルの一方にある和風=国風のスタイルを生みつづけていったのである。
(いしかわ きゅうよう・書家)