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仲島ひとみ 文豪も悩んでいた……[『図書』2025年6月号より]

文豪も悩んでいた……

出口智之『森鴎外、自分を探す』

 出口智之『森鴎外、自分を探す』

 高校現代文の定番教材四天王と呼ばれる作品がある。芥川龍之介「羅生門」、中島敦「山月記」、夏目漱石「こころ」、そして森鴎外の「舞姫」だ。どの会社の教科書にも載っている(載せないと採択が見込めない)圧倒的強者、まさに四天王。学校や世代を超えて読み継がれる定番教材は、確かにいつ読んでも色あせない名作でもある。

 しかし、森鴎外の「舞姫」は、他の三作品に比べてやや影が薄いことは否めない。一年生の必修授業で読まれる「羅生門」や、「その声は、我が友、李徴子ではないか?」「精神的に向上心のないものは馬鹿だ」といったパワーフレーズが印象深い「山月記」「こころ」は、しばしばSNSなどでもネタにされることがあるが、それに比べて「舞姫」が話題になることは少ない。なぜか。要因はいくつかある。

 まず第一にとっつきにくい擬古文であること。冒頭から「石炭をば早や積み果てつ」、いきなり完了の「つ」である。「山月記」の「隴西の李徴は博学才穎」をかろうじて乗り越えた生徒たちが、ここに至って「こんなの古文じゃん!」と投げ出したくなるのも無理はない。それでいて「ニル、アドミラリイ」なんて訳のわからない横文字まで出てくるのだ。ラテン語? なんでラテン語?って、そりゃもう「羅生門」に出てくる下人の「Sentimentalisme」どころの騒ぎではないのである。

 そして第二に、反発を招くストーリー。たとえば「山月記」では李徴の「臆病な自尊心と尊大な羞恥心」が高校生の身につまされるような共感を呼ぶのと比べると、「舞姫」の豊太郎はいかにも分が悪い。留学先で出会った恋人エリスを妊娠させて捨てて帰国する。しかも本人は肝心な時に人事不省に陥って後始末は友人にお任せ。高校生(特に女子)は「クズ男!許せない!」と憤慨するエンディングで、私自身も高校生の時にはそう思ったものである。そして、ドイツ留学、現地の恋人といった設定が鴎外自身の経験に重なることが知られると、作者まで反感を買うことになるのだ。鴎外は豊太郎と同じことをしたわけじゃないのだが。

 四天王最弱の「舞姫」と鴎外。ちょっとかわいそうでは?

 ということで、何かと不評な森鴎外を弁護すべく立ち上がったのが、『森鴎外、自分を探す』の著者、出口智之氏である。本書は、森鴎外(本名・林太郎)の生涯をたどりながら、彼が何に悩み迷ってきたのかを紐解いてゆく。

 もちろん彼の恋愛事情についても一章が割かれている。先行研究や資料から浮かび上がってくる豊太郎とエリスの事情、そして鴎外と恋人エリーゼの実際はどうだったのか。詳しくは本書を読んでいただきたいのだが、かなり本気で恋人との結婚を考えて日本にも招いたらしい鴎外は、最終的にその恋を諦め、家が決めた許嫁との結婚に至る。江戸時代から続く武家の論理と、巨額の国費をつぎ込まれて育成された人材、しかも軍人としての責任や重圧。軽々しく「愛を貫け」などとは言えない状況が見えてくる。

 「愛」といえば、ちょっと面白い話がある。『日本国語大辞典』で「愛」という言葉を引くと、親子や兄弟のいつくしみ、執着を表す仏教用語などの意味が並び、一番最後に出てくるのが「男女が互いにいとしいと思い合う」「恋愛」としての「愛」。そしてここに示された初出例が一八九〇年「舞姫」の「貧きが中にも楽しきは今の生活、棄て難きはエリスが愛」という文なのだ。本書では、まだ言文一致の確立していない時期に鴎外がどのように文体の試行錯誤を重ねながら書いていたかにも触れているが、恋人同士のLoveを何と言い表すかも決まっていない、そもそも物語をどんな言葉で書けばよいかすらわからない、そんな時代だったのである。その苦労を想像すると、「石炭をば早や積み果てつ」の味わいも変わってくるかもしれない。

 とにもかくにも鴎外という人は、先の見えない激動の時代、いつも何かに板挟みにされていた人なのだ。江戸時代の終わりに藩医の家に生まれ、現在の東京大学医学部に最年少で入ってストレートで卒業、軍医として国のトップに上り詰める一方で文豪としても名を残す……と書くと、なんだか華やかすぎて、共感なんて次元からは振り落とされそうにも思われる経歴だが、彼は様々な局面で矛盾に引き裂かれ、悩む。時に両立し、時に失敗する。漢学と西洋学、文学と医学、恋人と許嫁、嫁と姑、話し言葉と書き言葉……。

 そして彼の抱える葛藤の多くが自分自身の希望と周囲の期待とのギャップの中で生まれていることに気づくとき、私たちはそこに超越的なエリートではなく、等身大の人間を発見する。「やりたいこと」と「やるべきこと」が一致しなくて、苦しい。そんなことは、私たちの身の上にもいくらでもある。

 国際情勢もテクノロジーもめまぐるしく動き、先の見通せない現代。何のお手本もない中、悩みながら自分の道を探し選び取っていった森鴎外の軌跡は、時を超えて私たちに今を生きるヒントと勇気を与えてくれるような気がする。

(なかじま ひとみ・国語教育)


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