宇佐美文理 「考えるジュニア」の背中を押す本[『図書』2025年6月号より]
「考えるジュニア」の背中を押す本
藤田正勝『はじめての哲学』
この本は、「⽣きる」「死ぬ」「真実」「⾔葉」などについて、「⾃分で考えてみよう」とするスタート地点に⽴った「考えるジュニア」の背中をちょっとだけ押してくれる、そんな書物である。
要するに、⾃分で⾛る=⾃分で考える、ことが望まれるわけだが、もちろん教えられることもある。それは、ねばり強く考えること、である。
たとえば、「なぜ助けあうことが「よい」ことなのでしょうか」というような、⼀⾒⾃明のように思われることがらに対して、著者である藤⽥さんはねばり強く考える。そして読者もそのねばり強い思考に伴⾛しながら、知らぬ間に問題の核⼼にむかっていく。
この書物は、情報を得るために読むものではない。現代はコスパ・タイパという⾔葉が氾濫している。そんな中で、この書物を読むのに費やした時間が、のちの⻑い⼈⽣のなかでどのようなパフォーマンスをしてくれるのか、を考えてみたらどうだろう。そう考えた時、この書物の効果は絶⼤だと⾔っていい。この書物は、哲学とは何か、ということを「情報として」⼿っ取り早く知ることができるかどうかという点でのコスパ・タイパはよくない。しかし、⾒⽅を変えればずいぶん話は異なるのではないだろうか。
そして、哲学は「わたしたちが⽇常抱く問いの延⻑線上に⽣まれてきたもの」であること、また「深く考えていくことがとても楽しいこと」であり、それを若い世代に伝えたい、というのがこの書物のスタンスである。
また、なにかひとつ問題を提⽰して、プラトンやデカルトといった哲学者の考えを参照しつつ、「こう考えてみることもできるだろう」という答えらしきものを⾒せるとともに、実はその背後には新たな、そして根本的な問題がある、というかたちで「哲学」にひきこもうとする。たとえば、欲望の問題から、そもそも⼈は何のために⽣きるかという問題に誘う。書物全体にそのような「問い」がちりばめられている。
さながらプラトンの対話編のモノローグ版なのだが、重要なことは、「答えがすぐ出ないからといって、考えることをやめるのは決して賢明ではない」と書かれていること。まさしくこれは、春秋に富んだ若者こそ、⻑い⼈⽣を⽣きていくなかで「考えを深めていく」ことが望まれており、この書物がジュニア新書たる所以でもある。もちろん、⽼⼈は読まなくていいということではない。この書物はいわば「⾃分で考えることに関してジュニアな⼈に向けて書かれている」のだから。
⼈間は、問う存在である。そしてこの書物は、問いに関わるさまざまな訓練の書である。将来どのような問いに真正⾯から⽴ち向かうのか、また、どのような問いを⽴てることができるのか。それは⼈にとって極めて重要なことなのであり、同時にその⼈⽣が実りあるもの、よきものとなるかどうかについての根底をなす。
なお、この書物は、単に「考えるための後押し」をするだけではない。たとえば、⽣命というものを、個体の性質や状態ではなく、DNAによって受け継がれていく「連続的な歩み」と考える、など、諸処にさりげなく著者の考えが⽰される。
あるいは「もの」と「こと」の問題に関して、単なる「もの」の世界だけでなく、われわれの⽣のリアリティーを成り⽴たせる「意味の世界」の重要性が説かれているのだが、その「意味」は、対象が持っている「表情」である、とも記される。
そして、著者は、世界が⾒せるその「表情」を「意欲」、とりわけこの書物のキーワードのひとつである「⽣きる意欲」と関連させている。
意欲のある⼈に対してのみ世界は表情を⾒せる。その「表情を⾒せるもの」は、⾃然世界に限ったことではない。およそすべての事象──そこには実は哲学も含まれる──においても事情は同じであろう。哲学が若い⼈たちにどんな表情を⾒せるのか、それを著者は楽しみにしているように思われる。
最後のあたりに、印象的な⽂章がある。「真の知に⾄ろうとする意思」が、「哲学の歴史を⽀えている」と。そして、その意思を持った⼈こそが「哲学者」とされている。
著者が望むのは、まさにこの書物を読んだ「考えるジュニア」がそれを担っていってほしい、ということに違いない。そこでは、学者としての哲学者だけではなく、すべての⼈がその「意思」を持つことが期待されている。
なお、⾃分で考えた後には議論が必要、ともこの書物には語られている。
わたくしは、昨年度、中学校と⾼等学校で、この書物を使って読書会をしたことがある。中学⽣には少し難しいかなと思ったものの、さにあらず。⾃らの⽣活に結びつけて、⽂字通り⾝近なところから議論がなされた。
いっぽう⾼校⽣はやはりずいぶん⼤⼈で、将来や世界に広く⽬を向けた頼もしい発⾔や、冷静に⾃分の⼈⽣を⾒つめる思考など、さまざまな表情を⾒せてくれた。
「考えるジュニア」は、この世界のあちこちで、背中を押されることを待っている。
(うさみ ぶんり・中国哲学)