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井上里 規範の外側から[『図書』2026年10月号より]

〈『影との戦い』日本語版50年〉
規範の外側から

『帰還』から「オドレンの娘」、「火明かり」まで

 

 2025年に岩波少年文庫から刊行された『火明かり ゲド戦記別冊』には、短編2編のほか、エッセイや講演など5編が収められている。筆者はこのうちThe Books of Earthsea の序文、短編「火明かり」(原作初出2018)、アーキペラゴのオー島を舞台にした「オドレンの娘」(原作初出2014)の3篇を翻訳する貴重な機会を得た。表題作「火明かり」では最晩年のゲドが描かれる。ベッドに臥したゲドの過去と現在を漂う意識と呼応するかのように、冒頭の原文は抽象的でやや不明瞭な文体になっている。カラスノエンドウのこと、オジオンのこと、「苦しみの山」のことが、一続きの景色として脳裏を流れていくうち、やがてゲドは「垂木の上の闇に暖炉の火明かりが射していた」と気付く。夜が来るのだ。暖炉の前に座って火を眺めれば心地いいだろうと思うが、その程度のことをする体力さえもう残っていない。「火明かり」の原文の文体はいわゆる“子ども向け”ではない。ゲドをむかしから知っている読者に向けて書かれているようにも思える。ゲドは3巻『さいはての島へ』で魔法の力をうしなったあと、かつてオジオンのものだったこの住まいでテナーとともに暮らしてきた。その静かな暮らしのはじまりが描かれるのが、4巻『帰還』である。

 「ゲド戦記」シリーズは6巻から成る。しかし、ゲド(ハイタカ)の旅と成長、アチュアンの墓所で大巫女として暮らすテナー、世界の均衡をめぐる冒険が描かれる3巻までの物語は、4巻『帰還』(原作は1990)で大きく作風を変える。3巻までが5年のうちに立て続けに刊行されたいっぽう、4巻は18年後に発表された。間隔がこれほど長く空いたことについて、ル=グウィンは、4巻の中心に定めたテナーのことを「何も知らない」と気付いたからだと語っている(『火明かり ゲド戦記別冊』19頁)。だが、そのあとの18年で、ル=グウィンはテナーを書くための視点を獲得した。「違和感が強まるにつれ、物語をつむぐ力は弱まっていきました。70年代と80年代のフェミニストの作家や思想家たちのおかげで、わたしはやがて気付くことができたのです。わたしが抱いている欠落感は、物語の中心から女性が欠落していることによるものなのだ、と」(同上)。

 ル=グウィンが4巻の執筆を中断した1970年代前半という時代は、フェミニズムの潮流では第二波フェミニズムにあたる。第二次世界大戦のあいだ男性に代わる労働力として一度社会に出た女性たちは、ふたたび戻された家庭=私的な領域において、いま抱いている苦しみや不満が、実は不平等な社会構造と地続きであることに気付いた。「個人的なことは政治的なこと(The personal is political)」というキーワードが広く共有された時代のただなかで、42歳だったル=グウィンは4巻の執筆を一度中断する。そして18年後、60歳になったル=グウィンは、テナーとテルーとゲドの物語『帰還』を発表した。長い中断の時期に気付いた「欠落感」の正体について、ル=グウィンはより詳細な言葉でつぎのように語っている。

 

なぜわたしは──女性だというのに──物語のほぼ全編を通して男性のことばかり書いているのでしょう?(…)物語に登場する男性が何をするのか、それをどう描くべきか、そういうことならわたしも知っていました。一方、女性の登場人物が何をするのか、それをどう描くべきかということになると、とたんに頼れるものは自分の経験だけになるのです。個人的な経験など、大いなる“批評という名の総意”の承認はもらえません。“正典”に認められたものでもありません。(『火明かり ゲド戦記別冊』20頁)

 

 女性を主な登場人物として書けばキャノンから逸脱するという認識のもとで、『帰還』は書かれた。ここで以下、『帰還』の簡単なあらすじである。

 かつてアチュアンの墓所の大巫女だったテナーは、夫を亡くし、ゴント島の中谷でひとり暮らしていた。ある日、虐待によって大火傷を負った少女を助け、テルーと名づけて引き取る。やがてテナーは竜カレシンに運ばれてきたゲドと再会する。魔法の力をうしなっていたゲドは静かな生活を望み、中谷でヤギ飼いとして働きはじめる。一方、テナーとテルーは、テナーを憎む魔法使いアスペンやテルーを虐待した男たちに狙われる。やがて彼女たちはゲドとともに中谷で暮らしはじめるが、アスペンの策略にかかり、テナーとゲドは窮地に陥る。しかしテルーがカレシンを呼び、二人を救い出す。カレシンは、テルーの真の名がテハヌーであること、自分の娘であることを告げる。物語は、テナー、ゲド、テハヌーが新たな家族として暮らしはじめるところで終わる。

 3巻までとは趣を変え、『帰還』においては、異なる傷を抱えたテナーとテルーとゲドがともに送る生活が細かに描かれる。4巻の起点となったフェミニズムも、テナーの生活の一部として現れる。たとえば「もろきこと、女の魔法のごとし。邪なること、女の魔法のごとし」という慣用句として。テナーがオジオンの真の名を口にしたとき、魔法使いたちが「中年の田舎者の女」の言葉として聞き逃す瞬間として。ゲドが自分の皿を洗う姿に感じた小さな驚きとして。一方で、そのゲドがテルーの世話をテナーの仕事と決め込むことへの苛立ちとして。とうに成人した息子のヒバナが頑なに家事を手伝わないことへの深い失望として。生活に散りばめられた違和感をテナーは見逃さない。違和感のひとつひとつは、魔法が男によって作られ、男の仕事であり、女の魔法使いはひとりも存在していないという、アースシー世界の構造と規範を、そのたびに問い直すものである。

 イスラエルの研究者イーヴン=ゾーハーは、文学を複数の体系が中心と周辺の地位を争うポリシステムとして捉え、正典化された一般文学に対し、児童文学を劣位に置かれた体系と位置づけた(「Papers In Historical Poetics」、1978)。ちょうど同じ時期、「メアリー・ポピンズ」シリーズの著者パメラ・トラヴァースも、イーヴン=ゾーハーの論と呼応するかのように、児童文学というジャンル分けは子どもと著者を文学の主流から隔離するとして批判した(TIME 、1978)。ジャンルについては、ル=グウィンもトラヴァースと近い見解を示している。

 

この本もそのあとの5巻と6巻も、いわゆる“子ども向け”ではありません。また、“ヤングアダルト”と定義づけることもできません。(…)ファンタジーは未熟な者が読むものだという考えは、成熟と想像力というものについての凝り固まった誤解から生まれたものです。(『火明かり』23頁)

 

 ル=グウィンは『帰還』を書くにあたり、男性中心に形成されてきた正典や批評の承認をもはや執筆の指針とはしなかったが、同時にまた、本作を児童文学やヤングアダルトという別の既成ジャンルに位置づけることも拒んだ。既存の正典化や分類のシステムから距離を取るというこの姿勢は、フェミニズムに支えられた『帰還』という作品の在り方とも共鳴している。テナーやテルーは、これまで物語の外側に置かれてきた私的な生活の場から、中心を成り立たせてきた社会構造そのものを問い直す。周辺にいる者たちを中心に回収するのではなく、そこから世界を見る彼らを描くのである。

 それでもなお、やはりこの『帰還』は、子どもに手渡される文学として特別な意味を持っているのではないだろうか。

 スウェーデンの児童文学者マリア・ニコラエヴァは、大人の規範性(aeto-normativity)という概念を提唱し、児童文学が含み持つ権力構造を批判した(「Theory, Post-Theory, and Aetonormative Theory」、2009)。ニコラエヴァは、優れた児童文学には大人の規範性を問い直す可能性があると指摘している。大人の規範性が随所において是認されている作品のひとつとして彼女が例示するのは、「ハリー・ポッター」シリーズである。ダンブルドアは死んでなおハリーに指示と承認を与える。すなわち、大人の規範性から逸脱しない限りにおいてハリーは“活躍”する。いっぽう、規範を問い直す児童文学として紹介されているのは、アストリッド・リンドグレーンの『長くつ下のピッピ』である。ピッピはあらゆる規範をからかいの対象にする。枕に頭を置いて寝るという規範にあらがい、脚を置いて眠る。新しい言葉を考案して、確立された言語規範に疑いを投げかける、というようなこともする。

 ニコラエヴァの提示する規範というキーワードを援用するのであれば、『帰還』においては、フェミニズムによって社会規範が繰り返し問い直されることに加え、たとえば次のような場面において大人の規範性が揺さぶられているようだ。物語の後半、テナーとゲドはアスペン(イライズン)に拐かされ、窮地に陥る。テルーは連れ去られるテナーとゲドを追っていくが、その過程はこのように表現される。「すでにイライズンは今別れたばかりの父と母を自分の支配下におさめ、そのかくれがに引っぱっていくところだった。父は心臓に、母は舌に、早くも革ひもを通されていた」(379頁)。

 物語はいわゆる三人称限定視点を用いており、基本的にはテナーの視点から語られるが、アスペンの魔法によってテナーが意識を奪われて以降しばらくは、一時的にテルー視点で物語が語られていく。引用した箇所に登場する“父”と“母”は、すなわちテルー視点からのゲドとテナーの呼称である。ここに至るまで、ゲドはもとよりテナーは、自らを親として明確に位置づけることはしていない。つまり、“父”や“母”という役割は、大人の側からではなく、テルーの側からの承認として与えられる。これは、ニコラエヴァが批判した大人の規範性や操作性から離れた、子どもの主体性の肯定として読み取ることができる。

 『帰還』で描かれた、異なる背景と傷を持つ者たちが家族になっていくという主題は、後年の短編「オドレンの娘」(日本語版は『火明かり ゲド戦記別冊』所収)において、別の形で語り直されている。領主オドレンはかつて男のまじない師によって岩に変えられ、娘ウィードは、父を救うため14年もの歳月を費やしてきた。だが、魔法使いとしての鍛錬を積んで戻ってきた弟クレイは、新たな家父長のように振る舞い、誰に復讐すべきかをめぐって姉と対立する。“娘”であるウィードの人生は、家父長であった父を取り戻すことに捧げられ、父の権力は弟へと引き渡される。ウィード自身は、父の復讐を果たしたあと、逃亡先で出会い結婚した農夫と継娘との静かな暮らしに戻っていく。三人は、ゲドとテナーとテルーのように、異なる背景を持つ他者同士として出会い、長い時間をともに暮らしてきたのである。翻訳にあたっては、ウィードと農夫の会話には基本的に敬語を用いた。短く簡潔な会話からは、彼らのあいだに漂う静かな敬意が読み取れる。ル=グウィンが農夫を新たな家父長として描かなかったことには意味があると考え、その距離を日本語に残す必要があると判断した。

 社会構造の中心から離れた者たちが他者同士で関係を作り直すという『帰還』の主題は、「オドレンの娘」で語り直されたあと、「火明かり」でひとつの結末を迎えた。たとえば新自由主義的な努力の末に輝かしい成功をつかむという物語とはべつの場所で、彼らは中心を支えてきた規範をそれぞれのやり方で問い直したといえる。

(いのうえ さと・翻訳家)


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