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牧野伊三夫 暮らしと同じかたちの絵を描く[『図書』2026年10月号より]

暮らしと同じかたちの絵を描く

 

 はじまりは、広告チラシの裏などを見つけては絵を描く様子を見ていた母が、幼稚園で行われていた絵画教室に通わせてくれたのがきっかけでした。入園して間もない頃だったかと思います。週に一度、ベレー帽をかぶったおじいさんの先生が水彩絵具で描いた絵をイーゼルにたてかけ、それを園児たちがクレヨンで模写をして添削を受けるというものでした。こうした美術教育のやり方が正しいかどうかはさておき、僕は毎回その時間が楽しみでならなかった。

 小学校にあがると、図工の時間に他の子どもたちと同じような明るい原色の絵の具の色がなんとなく幼稚に思えて、絵の具をあれこれ混ぜて描くから、いつも暗く、よどんだ絵になってしまうのが悩みでした。しかし、それでもやはり絵を描くことが好きで、週に一度、近所に住む画家の夫婦がやっている絵画教室に通うようになりました。ここでは家の庭でスケッチをしたり、先生から「海の景色を描いてみよう」などというお題を出されて、みんなで一緒に描きました。クリスマスが近くなると、先生方がロールケーキとココアなんかを出してくれるのですが、そういうことも含めて、その時間が楽しかった。教室の壁には先生たちが描いた絵が飾られていて、変な絵だなと思って眺めていたのですが、それらがフランスのジャン・デュビュッフェら、アンフォルメルの画家たちから影響を受けたものだということを知ったのは、ずっと後になってからのことでした。

 小学校ではほかの子どもたちより、絵が上手だと褒められていたので、その頃からでしょうか。自分は絵が得意なのかなと思うようになり、中学になると美術の授業で描いた絵が教室や廊下に飾られるようになったんです。といっても、その頃は中学生ですから、画家になりたいなどと思ったことは一度もありません。外で野球をしたり、釣りに出かけたりするのが好きだったり、虫が好きでファーブル博士に憧れていたりしたので、画家のようにアトリエにこもって仕事をするなどという地味な生活は嫌だと思っていたんです。

 やがて高校に進学すると水泳部に入部して、部活と勉強に明け暮れました。絵は美術の授業のときに描くくらいで、マンガに熱中して、よく登場人物などを模写して友達に見せて自慢したりしていました。思い出すと恥ずかしいですよね。もともと人と競うことが苦手な性格もあって、勉強でもスポーツでも人と競争をすることを嫌だと思うようになり、このまま大学に進んで、就職をするのかと思ううちに、このレースからのがれる道はないかと考えるようになりました。それでふと、美術部の門を叩いて水泳部と兼部して油絵を描くようになり、その後、美術大学に進学することにしたんです。

 ところが家族や親戚に美術に関わる者もなく、実家は自営で商売をしていましたから、父からは社会性がないと大反対を受けました。油絵科を受験したかったのですが、社会性のあるデザイン科を受験すること、そして受験して失敗したら、家業を手伝う、あるいは入学してもいずれは郷里の九州へ戻るということでなんとか許しを得ました。きびしい親でしたね。それからは本格的にデッサンの勉強のために美術専門の予備校へも通って、必死に絵の勉強をはじめ、東京の多摩美術大学へ入学することができたんです。

*

 ただ絵を描くことが好きだというだけで美大のデザイン科に入学した僕は、デザインの授業には興味がもてず、エッチングやリトグラフ、シルクスクリーンなどの版画に興味をもつようになり、次第に版画教室に入り浸って作品の制作を行うようになりました。また同時に、絵と言葉が同居する絵本や詩画集のような世界にも関心をもち、やがて文学にも憧れるようにもなりました。そうしたなかで、自分にもなにか表現すべきものがあるのだろうかと考えるようになったのですが、人生体験も貧しく教養のない当時の自分には何もなく、ただ作品を作りたいという乾きがあるだけでした。

 当時、僕が大学生時代を過ごした1980年代の後半は、バブル経済の影響もあって、海外から現代美術と呼ばれるアートが次々と日本へやってきていました。ヨーゼフ・ボイスやナム・ジュン・パイク、ジョージ・シーガル、フランク・ステラ、アンディ・ウォーホル。彼らの作品は「絵画の時代は終わったのだ」と語りかけてくるようでした。多摩美術大学で教鞭をとっていた現代美術家の作家が「人間は死んだ」と語って芸術の授業をはじめたりするわけですが、絵画を学ぼうとして入学した僕には、それがどういうことなのか、よく理解できず、ただ混乱するばかり。なにしろピカソの時代のアヴァンギャルド、マネとモネの違いさえわかっていませんでした。

 一方で、わからないことだらけであるということは刺激的でした。自分の価値観やモノを見る目が刻々と変化していくことが面白くなり、いつしか芸術の世界にどっぷり浸かっていました。まだまだ学びたいと思うようになった頃、卒業の時期がやってきました。一時は大学院に進むことや海外の美術大学で学ぶことも考えましたが結局、生活上の理由から諦めざるを得ませんでした。それで卒業と同時に、就職してデザイナーとして働くことにしたんです。

*

 会社は当時、東京の丸の内にあった、小説家の開高健や山口瞳がサントリーの広報部を辞めて作ったサン・アドという広告制作会社でした。社会人としての常識や広告づくりやデザインなど、多くのことを学び、仕事を通じて小説家や画家、写真家などの仕事にふれることができました。月給は安かったのですが、ここで学んだことは計りしれません。その後、書籍や広報誌などのイラストやデザイン、編集の仕事をする基礎になりました。

 仕事はとても忙しく帰宅はいつも朝方でした。しかし、そんな生活のなかでも、僕は絵を描くことがやめられなかった。週末に家で絵を描いていると筆が止まらなくなって、月曜日の朝まで絵を描き、目が覚めるとお昼近くになっていて、遅刻をするということが度々ありました。まったく新入社員にあるまじきことですね。

 そのうちに役員会でクビが決まったと知らされました。そのとき「一ヶ月無遅刻無欠勤だったら取り消してくれないか」と先輩の一人が役員たちにかけあってくれたんです。必死に頑張ってなんとかクビは取り消しになりましたが、このとき自分は会社勤めに向いていない、これ以上、会社にいたら迷惑をかけてしまうにちがいないと感じ、辞表を出しました。まったくの役立たずでしたが、新宿の居酒屋で送別会が行われ、そこに社長も来てくれたのは嬉しかったです。本当にいい会社だったんですよ。あの会社じゃなかったら、僕はどうなっていたかわからない。

*

 会社を辞めてからは、画家として一から絵をやりなおそうと、古いアパートの一室をアトリエにして、静物や人物、抽象画などを描いたり、朝から近所の公園に行って風景画を描いたりして、光の捉え方や絵の具の勉強を始めました。そのなかで、やはり単純に好みというものがあり、僕は山口薫、ボナールなどの画家に惹かれました。彼らの絵は美術的に色や形を追求するものではなく、どこか詩だとか小説を思わせる素朴な表現で、カンバスに描かれた油彩画ではなくとも、ただ紙に鉛筆で簡単にデッサンした線にも深い味わいがありました。絵の具を使う前に、すでに画家としての意識や、そのときの呼吸、空気が描かれているんです。そこには気負いだとか、衒いだとか、そういうものは一切感じられず、描いたというより自然と出てきたという、確かな質感がありました。それは練習しただけでは描けない線なんです。憧れましたが、僕には未熟すぎてなかなか描けませんでした。自分だと思える線が描けるようになるまで、それから何十年もかかりました。

 生活はもちろん厳しかったです。なにしろ定期収入がなくなりましたから、来月は家賃が無事払えるだろうかという不安がずっとつきまとっていました。なんとか糊口をしのぎつつ、一日の大半を絵を描く時間にあてていました。それでも、このどん底の時代に現在の僕の画家としての生活の基礎ができたと思います。ひとつは一日の時間割りをつくって、食事や睡眠、仕事、入浴などの時間を決めて規則正しい生活をすること。もうひとつは、食べたいものを自分の手でつくること。それから、目にして嫌なものは、身のまわりに置かず、好ましい空間に身を置く。見るものを描くことが仕事なので、いつも好きなものを見ていたいんです。

 それから、昔の画家たちの画集や随筆集、美術評論などを購入したり、国内外の美術館を訪ねて収蔵作品を見る旅に出かけたりしました。作品を描くというよりは、基礎的な絵の描き方を学び、美術の歴史を学ぼうとしていました。日本の明治時代から現代までの、さまざまな画家たちの仕事を見ていて、自分が好きだなと思う絵を描いていた画家のほとんどが、戦前の大正から昭和初期の時代に活躍していることがわかってきたんです。それは文学で、白樺派がフランスの影響を受けていた時期と重なります。そこにはなにか、西洋文化への純粋な憧れといったものがあり、自分の嗜好と合ったのかもしれません。フランスの画家たちに憧れていたのなら、フランスへ行って彼らと同じ景色を見て、同じものを食べて、そこで絵を描けばと思うのですが、当時の僕にはそんなゆとりはありませんでした。料理書を見ながら、なんとなくフランス料理らしきものをこしらえて、安ワインを飲みながら、彼らの絵を眺めては、東京の景色のなかにフランスらしきものを探していました。一方で、絵を通じて、その当時の東京の洋食屋とか喫茶店、劇場なんかの風景をいいなと思うようになりました。

 しかしそうしたものがいま、再開発でどんどん消え去っていく。酒屋や魚屋、八百屋などの個人商店が消えて、街は新しく均質化されていくばかりです。そういう変化に対して、どこか反発があるんです。懐古趣味を目指したわけじゃないけれど、昔からある「いい感じのもの」が、簡単に切り捨てられているのを受け入れられなくて、僕はあえて「過去」を見ようと思ったんです。未来よりも、過去を見る。そう決めたら、なんだか少し楽になったように感じました。最先端のアートよりも、過去の知らない芸術家たちの世界を学ぶことの方が、愉しいと感じるようになりました。

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 やがて仕事でお金が入るようになると、明日のことも考えず、行き先も決めず、画具をカバンに詰め、電車に乗って何日も旅をしました。アトリエからの逃避のようなものでしたが、面白がって食や旅の挿絵やエッセイを依頼する人が現れました。その後は、サントリーの機関誌や『暮しの手帖』、北九州の情報誌『雲のうえ』、飛騨産業の広報誌『飛騨』などのイラストレーションや編集企画の仕事が続き、やっているうちに旅先や酒場などの取材先で絵を描くようになりました。たいがい編集者やデザイナーとの共同作業で、独りアトリエにこもって自分の絵について学んでいた僕には楽しい仕事でもありました。写真家の友人とマダガスカルへ絵を描きに行ったり、音楽家の友人とニューヨークやパリへ行き、現地で音楽と絵の即興制作をしたりもしました。

 一人でできなければ仲間とやればいい、と身近にいた仲間たちとつくった美術同人誌『四月と十月』など、もともと誰かと何かをつくったり、一緒に遊ぶことが好きなのだと思います。独りで絵を描いて、個展をして、周りにその絵を評価されても、あまりうれしくはないんです。人と分かちあえて、ようやくほっとする、そういう性分なのだと思います。自分が描いた絵が何かの役に立つことが素直にうれしい。今の僕の絵は旅先で描いたり、家で七輪に炭をおこして料理をつくったり、家具を手づくりしたりして、つつましいながらも素直に自分の感覚にしたがって生活を続けているうちに、自然とかたちづくられていったように思います。どういうものなのかと聞かれるとはっきり言葉にできません。ただ平凡な風景を描く時にも、普段の暮らしで培われた感覚や美意識が絵になって現れてくるんです。

 ここ15年ほどは、大分県日田市の林産地に通って、地域林業を応援するために、牛蒡を丸太に見立てた弁当をつくったり、フライヤーを制作したり、地元の杉で家具などのデザインをする活動をしています。いずれもスケッチを描いての仲間たちとの共働で、僕としてはこれも画家の仕事の一環と考えているんです。かわらず、アトリエでの絵の制作は続けているのですが、いつしか絵を描くことと旅をしたり生活をしたりすることとの境目がなくなっていました。

 ことしの夏は、壱岐で喫茶店を開いたという友人を訪ねて、彼女が子どもの頃から見ていたという海辺の景色を案内してもらって、そこで絵を描きました。こうして友人を訪ね、話をして、いい風景に出会って、自然に描いてみたくなって鉛筆を手にとる。今回こうして話をしながら、僕はずっとこんなふうに絵を描きたかったのかなと気づきました。旅先でも、酒場でも、あるいは普段散歩したり家族と過ごしたりしているときでも、僕にはどこか遠く離れた別の場所から自分を見る「目」があるんですね。それは絵を描いたり、文章を書いたりするときの客観的な目です。その目がなんということのないようなものを魅力的に思わせ、そこで過ごす自分を物語のように語りはじめる。そんなとき目の前の景色が、ふといとおしくなって描きたくなる。

壱岐の小坂雲丹店喫茶室を訪ねて描いたスケッチ。 《海岸風景》2026年。紙に鉛筆
壱岐の小坂雲丹店喫茶室を訪ねて描いたスケッチ。 《海岸風景》2026年。紙に鉛筆

 ただ、そこで描いたものはまだスケッチにすぎません。それをアトリエに持ち帰って、カンバスに落として、今度は、ああでもない、こうでもないと自分の感覚や美意識と対話しながら絵の具を重ね、つぶし、独り悩んで、絵として仕上げていく。自分の描くべきものがわからないと言いながら、僕はもうずいぶん長い間こんなふうにいます。

聞き手=朝木康友

(まきの いさお・画家)


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