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栗原康「神は死んだ」〈瀬戸内寂聴『遠い声』解説〉

 [解説]
神は死んだ
    栗原 康

 

 

夢をみながら現実をあるく

 LOVE寂聴、いくぜ!目下、コロナ大流行のまっただなか。パンパパン、パンデミックだ。じつはこの四月、寂庵をおとずれ、寂聴さんと対談を予定していたのだが、さすがにもしものことがあってはいけないということで、延期させていただくことになった。お会いしたい、残念だ。おお、コロナ。しかし、こんなときこそ文学だ。恋のはなしをむさぼり読みたい。

 人間というのはおそろしいもので、どんなにおだやかなひとでも、テレビをつけてアベノマスクよろしくお上がやっていることをみてしまうと、ふざけんじゃねえとイラだってしまう。目がさえて、もうバッキバキだ。たえずオンライン状態。もっとああしなければいけない、こうしなければいけないと、よりよい統治をもとめてシャカリキにさせられる。人間の思考が社会の役にたつことだけに括りつけられる。無用なものは切りすてろ?自粛しないやつはウイルスだ?みんなの迷惑をとりしまれ?警察的思考だ、統治者目線だ。世のなか、支配と命令でガッチガチ。

 だけど、文学はそのすべてを一瞬で変えてしまう。ひとたびのめりこめば、ポンッと警察的思考をとびこえてしまうのだ。恋におちるようなかんじといってもいいだろうか。本を読むのはもちろん好きでやることなのだが、しかし夢中になってむさぼり読むというのは、自分の意志で計算してやることではない、できることではない。もちろん他人にいわれてすることでもない。

 たとえ終始、不倫のことしか書いていなくて、とくに自分の人生にとって役にたつものではなかったとしても関係ない。やめられない、とまらない。役にたつとか、たたないとか、そんなことはもうどうでもいい。なにかこの世ならざる力に駆りたてられて、まるで夢でもみているかのように、おもわず本に恋してしまう。おのずとやってしまうのだ。そういう「自発」の力を手にしたとき、ひとはほんとうの意味で、統治者目線からぬけだしているのだとおもう。恋がしたい。夢をみながら現実をあるく。

 この本は危険だよ

 わたしにとって、本書はそういう存在だ。テーマは恋と革命。明治時代のアナキスト、管野須賀子の評伝小説である。一九六八年から雑誌『思想の科学』で連載され、一九七〇年に単行本として刊行された。時期的に、日本でもそろそろウーマンリブが産声をあげようとしていたころである。いまでも根っこは変わっていないが、まだ女性が性的なことをかたること自体がタブー視され、ふしだらだといわれていた時代。セックスの主体はあくまで男であり、女は一方的にかたられる客体にすぎない。主人と奴隷だ。女は男の所有物なのだから貞操をまもらなくてはならない、おしとやかにしなくてはならない、それをやぶる女は賤しいんだ、汚らわしいんだと。「良妻賢母」か「淫売婦」か。子どもを産むための機械となるか、性処理の道具となるか。便所かよ。

 そんななか、寂聴さんがとりくんだのが管野須賀子だ。文筆家としても名をはせながら、性に奔放で、ときに妖婦、毒婦とディスられてきた女性闘士。ほとばしる情熱を武器にして、天皇を爆破してやろうとおもいたち、官憲にバレて大弾圧をくらってしまったアナキスト。魔女的なイメージをもたれ、ネガティブにかたられがちだったかの女を、寂聴さんはそっくりそのままひきうけて、ポジティブにとらえかえしていく。客観的に評価するとか、そういうことではない。どこかしらで自分とかさねていたのだろう。独白だ。寂聴さんが須賀子になりきって、セックス、セックス、性的なこともふくめ、これまで自分がやってきたことを滔々とかたりだす。ド迫力だ。

 せっかくなので、須賀子がどんなひとだったのか、かんたんにまとめておこう。須賀子は一八八一年、大阪生まれ。お父さんは事業家であるていど裕福だった。もともと元気いっぱいの子だったのだが、一二歳のときお母さんが死んで生活が激変してしまう。かわりにはいった継母にイジメられたのだ。一六歳のとき、継母のてびきで家に鉱夫がおしいり、レイプされてしまう。継母は、おまえがはしたないからそうなったのだとでもいわんばかりだ。ひどい。なんでわたしだけこんな目に。これがトラウマになってしまう。わたしは賤しいのだ、汚らわしいのだと。一九歳のとき、結婚して上京。花の都大東京だ。しかしすぐに夫がイヤになって家をとびだし、大阪へ。小説でもかこうか。弟の紹介で、宇田川文海に弟子入りする。文海は当時、有名な作家で、須賀子よりも三〇以上年上のひとだったが、もう須賀子にメロメロだ。こいよこいよということで愛人になった。不倫だ。一九〇二年、文海の推しで『大阪朝報』の記者になる。ジャーナリストだ。

 当初、須賀子の関心は廃娼運動にあった。キリスト教の洗礼をうけ、その先頭にたっていた婦人矯風会にもはいっている。だがこのころ、批判の矛先は、女性の性奴隷化を公認していた政府ではなく、娼婦のほうだった。矯風会は「賤業婦」「醜業婦」ということばをつかって、あの恥ずかしい仕事をひとまえにみせるなといっていたのである。須賀子もその例にもれない。なぜそんなことをしてしまったのか。本書では、それをこうえがく。須賀子は廃娼運動をつうじて、これまで賤しいとおもわされてきた自分を自己否定していた。そして、おお、神よといってみずからを洗浄し、その一方で道ならぬ恋をして性的快楽をむさぼってしまう。その背徳感がさらに弱い者への攻撃となり、またさらなる性的快楽をむさぼり喰らう。自分、サイテイです。というか、そんなことをつづけていたら、精神が破綻をきたしてしまうだろう。オーマイガー。

 そんなとき、ひきつけられたのが社会主義だ。こんなダメなわたしでも救われるのだろうか。キリスト教でいきづまった問題関心が、社会の不条理をうつ社会主義へとむかっていく。東京の平民社をおとずれ、堺利彦とあった。須賀子が自分の退廃っぷりをすべてはなすと、堺はジッとはなしをきいてくれて、ご苦労しましたね、あなたはなにもわるくないですよといってくれた。そうだったのか。わたしはなにもわるいことをしていないぞ。むしろ、わたしは賤しい、ダメだとおもわせるこの社会がおかしいんだ。須賀子の社会主義はそんなところからはじまっているのだとおもう。

 一九〇五年、須賀子は堺のすすめで、和歌山県田辺にあった『牟婁新報』の記者になる。社会主義に好意的な新聞である。翌年から田辺に移住。その道中、船のなかで娼婦が男たちにひどい目にあっているのをみたという。このとき、須賀子ははげしい憤りをおぼえた。もはや「醜業婦」という認識はない。そういうものの見方自体に怒りをおぼえたのだ。人間が人間をモノとしてあつかう、奴隷として支配する。男が女をモノとしてあつかう、妻として娼婦として支配する。資本主義にしても家父長制にしても、ひととひとのあいだにヒエラルキーがある、それがあたりまえだ、自然なことだという認識がある。それがより弱い者たちをみくだす態度をうんでいく。それをたたかなくてはならない。『牟婁新報』にはいってから、須賀子はふたたび廃娼運動にたずさわっていくのだが、その視座はもうかの女なりの社会主義になっていたのだとおもう。

 さて、田辺時代、須賀子は肺結核をわずらっていた妹をよびよせ、めんどうをみる。でも、そのうちに自分も結核になってしまった。たいへんだ。しかしこのとき絶望的にはなっていない。荒畑寒村がいたからだ。須賀子がやってくるすこしまえ、平民社からは若手のホープ、寒村が派遣されていた。須賀子よりも六つ年下の男の子。ともに記者をやり、親しくなった。最初は恋愛というよりも姉と弟のような関係だ。妹ともなかよくなり、三人でよく遊びにでかけた。本書を読むかぎり、須賀子にとってはこのころがいちばん穏やかでしあわせだったようにおもわれる。

 やがて寒村は東京にかえり、それをおうようにして一九〇六年、須賀子も『牟婁新報』を辞めて東京にでる。寒村と結婚していっしょにくらすようになった。でも、ふたりの仲はすぐに冷めてしまう。いや、須賀子のほうが冷めてしまったといってもいいかもしれない。このへんのくだりは史実をたどるよりも、寂聴さんの文章をみてもらったほうがぜんぜんしっくりくるとおもうので、ぜひゆっくりと読んでもらいたい。そしてむかえた一九〇八年だ。赤旗事件がまきおこる。歴史上有名な事件だが、ほんとうはたんに、寒村とその親友であった大杉栄が街頭で赤旗をふっただけのことだ。これで大弾圧をくらい、その場にいた社会主義者全員が逮捕されてしまう。ムダに刑もおもい。寒村は一年半、大杉にいたっては二年半も監獄にぶちこまれてしまった。

 このとき須賀子もつかまり、裁判にかけられている。さいわい無罪となったが、ひどいとりしらべをうけ、おまえはブスだとかなんだとかディスられまくる。ああ、これが官憲か。そして、仲間たちがどうみても法外な懲役刑をくらっている。国家そのものがクソなのだ。須賀子はアナキストになった。なにかしたい。でも寒村も堺も大杉も、おもだった仲間たちは監獄にいる。そうおもっていたら、体をこわして故郷の高知県にひっこんでいた幸徳秋水が東京にもどってきて活動をはじめた。社会主義のスーパースターである。いっしょに雑誌をつくろうという。ガッテン承知。

 しかしたいていのことはうまくいかない。雑誌をだしてもだしても発禁処分。どんなに工夫をこらして、法律にひっかからないようにしても、権力はかまわず発禁にする。言論活動すらままならない。そしてともに苦難をのりこえようとしているうちに、秋水と須賀子が親しくなる。ネンゴロだ、燃えるようなセックスだ。監獄にいる寒村は、それをしって大激怒。のちにピストルをもってふたりをつけまわすようになる。シャバにいた社会主義の仲間たちからも総スカン。須賀子のせいだ、あいつの淫乱のせいで秋水がダメになってしまった。あの妖婦め、毒婦めと。そうやってひとをみくだす態度こそが、あらゆる支配の温床になっているのに。秋水と須賀子が孤立していく。

 もうこんな世界どうでもいいね。腐った社会に未練はない。仲間うちのくだらないしがらみだってまっぴらごめんだ。いま死んでもいい、いまこの一瞬で燃えつきてしまってもいい。そんなセックスをふたりでかわす。情死のロジックだ。じつはふたりとも結核をわずらっていてあと何年生きられるかわからない。そして、ちょうどそのころ須賀子と秋水が読んでいたのが、ロシアニヒリズムの本だったというのもあるだろう。ロシアの若者たちが爆弾をもって、命がけで皇帝をやっつけにいく。こんなクソみたいな世界で、自分の損得を考えるのはもうやめにしよう。身を捨てて、ただひたすら決起。秋水はいう。理屈じゃない。ひとが本気でたちあがるとき、それはおのずとうごいてしまうものだ。自分の意志ですらコントロールできない「自発」の力に身をまかせよう。秋水はそれをインサレクション、「蜂起」とよんだ。

 じゃあ、どこをやろう。天皇制だ。日本では、人間による人間の支配があたりまえだと考えられている。資本家と労働者しかり、男と女しかりだ。奴隷が主人にしたがうのはあたりまえ。なぜならご主人さまは偉いから。その大元にあるのが天皇制だ。現人神である天皇が庇護してくれたから、赤子である臣民は生きてこられたのだ。ご恩を返せ、税金をはらえ、死んでもはたらけ、戦争にいけと。そんな迷妄から民衆たちをときはなたなくてはならない。いちどみんなの目のまえで、天皇をこっぱみじんにふっとばし、あいつはただの人間だとみせつけてやらなくちゃいけない。

 須賀子はもうシャカリキだ。やめられない、とまらない。そんなとき、愛知から宮下太吉という青年がやってきて、オレ、爆弾をつくりますよというので、信頼できる友人の新村忠雄、古河力作といっしょに天皇爆破計画をたてる。とちゅうで秋水が、やっぱりオレは文筆をやりたいといいはじめたので、秋水にはしらせずに自分たちだけでうごきだす。クジ引きでだれがはじめに爆弾を投げるのか、それだけきめた。しかし一九一〇年、宮下が爆弾をあずけていた友人のつれと不倫をしてしまう。その痴情のもつれから計画が発覚し、イモヅル式につかまっていく。秋水もつかまった。マジでなんの関係もない秋水の友人たちも続々ととらえられた。ぜんぶで二六人。検察によってものすごい計画があったかのようにフレームアップされ、大逆罪で一二名が死刑、一二名が無期懲役。大逆事件だ。前代未聞のデッチアゲ事件である。

 須賀子はこの事件のきっかけをつくったことから、「魔女」のイメージをもたれているのだが、しかし寂聴さんの本を読みかえしていてあらためてヤバイとおもったのは、秋水とのセックスから天皇爆破計画までの熱量とスピード感がハンパないということだ。いま死んでもいい、いま死ぬつもりでやってやる。その情熱がパンパン、パンパン爆発し、理屈ぬきでダイレクトにテロリズムにつながっていく。むろん恋と革命はべつものだ。だけど、そのちがいを読み手にまったくかんじさせない。恋は人間を爆弾にする。それがまるであたりまえであるかのように、おのずとやってしまうかのようにおもわせていく。寂聴さんが「魔女」になる。寂聴さんの筆が「蜂起」になる、「自発」になる。誤解をおそれずに、こういってもいいだろうか。この本は危険だよ。

不合理なことだけ信じてゆきたい

 どうだろう。女性は一方的にかたられる存在だという考えかた自体が圧倒的な力で粉砕されているといえないだろうか。性の主体である男が、女を客体としてコントロールする?主人と奴隷だ?それがひとの世だ?すくなくとも須賀子はみずからの性の欲望を爆発させ、その爆風でもって、ひとがひとをコントロールしようとする支配の枠組みそのものをふっとばそうとしていた。

 そして秋水の思想をまなび、その意図をかるがるととびこえて、みずからの思想を実行にうつしていく。もはや奴隷ではない。客体としての、モノとしての女性ではない。かといって、男になろうとしているわけでもない。主人でもなく奴隷でもなく。主体でもなく客体でもなく。そのあいだにスッとうまれてきてしまうような、この世ならざるものに化けていく。そうしてポンと昇天してしまうのだ。

 しかもこれは物語の内容ばかりではない。本書の叙述のしかたにもかかわってくることだとおもう。さっきもすこしふれたけれど、寂聴さんは死刑直前の須賀子になりきって、自分の人生をふりかえっていく。独白のスタイルだ。これがほんとうに効いている。じつは評伝的なものをかくとき、むずかしいのは現代にちかづけばちかづくほど、歴史的事実がはっきりとしてしまうということだ。登場人物がたくさんいても、だいたいどんな性格をもっていて、なにをやらかすのか、その結果として最終的なゴールがどうなるのかもすでにわかっている。

 それでもし第三者目線で客観的にえがこうとしたら、かならず失敗してしまう。すべてをしっている作者が登場人物という駒をうごかして、ゴールにむけて動員するだけになってしまうからだ。物語が閉じてしまう。そんなのクソつまらないし、なにより主体であるわたしが客体であるモノをコントロールするということをやっているだけなのだ。ぜんぜん夢をみていない、この世界を突破していない。どんなにいい内容がかいてあったとしても、それでしらずしらずのうちに他人に植えつけてしまうのは、かたる側がかたられる側を支配する認識フレームそのものだ。

 だけど、須賀子の独白はそれをピョンととびこえる。主語はきほん「わたし」なのだが、とちゅうでそれがだれなのかわからなくなっていくのだ。だれのまなざしなのか、それがときどき不分明になっていく。たとえば、寒村にたいする姉のような、恋人のようなやさしいまなざしだ。それが異様にリアルである。もちろん死刑をまえにして須賀子は寒村の消息をきいていたくらいだから、ひどいふりかたをしてわるかったというおもいもあっただろうし、気にはなっていたのだろう。でも本書では、そのおもいがあきらかに過剰である。須賀子本人よりもやさしくてあたたかい。

 きっとこれは寂聴さんが寒村と親しかったのもあるのだろう。祇園の料亭で芸者をあげて、いっしょに食事をする。そしたら酒を飲めない寒村が日本酒で煮込んだスッポンのスープを飲んでひっくりかえってしまったり。あるいは、九〇歳にして四〇歳の女性に恋をして、こっぴどくフラれて号泣している寒村をなぐさめたり。そんな姿をみせられたら、年下でも姉のようなきもちになってしまうだろう。でもそうかといって、寂聴さんの寒村へのおもいがそのままつづられているわけでもない。どこか寒村が須賀子にこうおもわれたかったことがかかれているようにもおもえる。だれがかたっているのか。かたる側とかたられる側の区分がとっぱらわれていく。その声をきいたとき、ひとはおもわず物語の外にとびだしてしまう。解放だ、きもちいい。

 考えてみると、本書から二十数年後、寂聴さんは『源氏物語』を訳すことになるのだが、ここでもたまにおどろかされるのは、主語がだれだかまったくわからなくなるということだ。それこそ、この世ならざるものがみんなを衝きうごかしているかのようにおもえてくる。本書にもそういうところがあるだろう。物語のラスト、さきに逝った秋水があらわれて、須賀子を断頭台にいざなう。「「すぐすむよ」。秋水が私にささやく。首に冷たいものがまきつく。細い蛇のような感触。軀が宙に飛ぶ。虹が廻る。無数の虹が交錯して渦を巻く。秋水と飛ぶ」(二九八頁)。どんな力に駆りたてられるのか。ぜったいにあらがえない力がある。お化けだよ。こわすぎだ。

 では、最後にもういちど内容にもどろう。本書でふれられているわけじゃないが、わたしが須賀子でいちばん好きなのは、死刑を目前にして自分の死をイエスの犠牲になぞらえていたことだ。恋人だった秋水が『基督抹殺論』をかき、天皇をキリストにみたてて、あらゆる権威を抹殺しようとしていたのとは対照的である。でもじつのところ、いいたいことはおなじだったのではないか。イエスは最期、弟子たちみんなに裏切られ、神にも見捨てられて、絶望のどん底におちていた。なんでオレだけこんな目に。人間どもには悪意しかない、虚偽しかない、裏切りしかない。ああ、こんな世界終わってしまえ。しかしなんにも報われず、なんにも信じられなくなったそのときに、やっぱりひとには善が宿っている、信じようとおもってしまう。ふとつぶやいてしまうのだ。おお、神よ。根拠はない。だがうたがう余地はない。なぜという問いなしに。不合理ゆえに我信ず。聖人だ。

 須賀子もおなじだ。神も仏も救ってくれない。社会主義の仲間からもつまはじきにされた。信じていた秋水でさえ、元妻によりをもどそうと手紙をかいていた。裏切りだ。だれもなにも信じられない。なんでわたしだけこんな目に。こんな世界は終わってしまえ。しかしそうおもったまさにそのときに、いま死んでもいい、セックス、セックス、テロリズム。秋水と燃えつきようとした瞬間がおもいおこされる。いいことなんてない。ただ悲惨な目にしかあっていない。でも、なんどおなじ状況になったとしても、なんどでもおなじことをくりかえすだろう。たとえ自分が死んだとしても、後世のひとがまたおなじことをくりかえす、くりかえしてしまうのだ。なぜじゃない、理屈ぬきでうごきだす。あらゆる権威を抹殺しよう。ただしい根拠はひとつもいらない。不合理なことだけ信じてゆきたい。須賀子が聖人になっていく。この世ならざるものになっていく。本書の魅力は、そういう須賀子のすごみがまるごと表現されていることなのだとおもう。おまえとならばどこまでも、市ヶ谷断頭台のうえまでも。神は死んだ。須賀子とぶ。

(アナキズム研究者)

 

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