web岩波 たねをまく

岩波書店のWEBマガジン「たねをまく」

MENU

西尾哲夫×深緑野分トークイベント「世界はいつもミステリアス」

西尾哲夫×深緑野分トークイベント 世界はいつもミステリアス!(前編)

『ガラン版 千一夜物語』(岩波書店) 全六冊完結記念
西尾哲夫×深緑野分 トークイベント

世界はいつもミステリアス!
――作家といっしょに読む『ガラン版 千一夜物語』(前編)

プロフィールはこちら


2020年8月8日(土)
青山ブックセンター本店(オンライン)

 

千二夜目を書くとしたら…

西尾:さて、さっそく本題に入らせていただきます。千一夜物語は、物語として非常に面白いので、訳してみようと思ったのですが、私が深緑さんに是非聴きたいのが、この物語をどのように読まれたのか、ということです。

  とくにガラン版は1704年に訳されてヨーロッパでブームになって、いろんな作家に影響を与えてきたと思います。ありふれた質問ですが、自分で翻案して書くとしたら、この中のどの物語がいいですか。また、たとえば、千二夜目を自分で書くとすると、どういう話がいいでしょうか。つまり、物語の終わりが最初はわからなかったということもあって、これまでも作家さんは、結構千二夜目を書いている。想像力をかきたてるんでしょうね。僕が好きなのはエドガー・アラン・ポーが書いたもので、千一夜目の話が終わって王様が許してくれてやれやれと思ったら、もういっぺん語ってくれるかと言うので語りだすと、命がかかっていないからあまりおもしろい話ができなくて、もうええわ、ということで殺されてしまった、というひどい話もあるんです。

深緑:ポーっぽいですが、ひどい(笑)。

西尾:深緑さんはどの物語が気に入っていて、自分だったらどう書いてみるのがいいな、というものがありますか。

深緑:私は1巻の「王子である三人の遊行僧とバグダードの五人の娘の話」のなかの、お姫様がいろいろ変身してジンをやっつける話。千一夜やおとぎ話というのは、ド派手なことが起こるというイメージがあまりなくて、グリム童話とかは魔法がでてくるけど、だれかが変身する程度なのに、この姫君がいろんなかたちに変身しながら悪いジンを魔法でやっつけるという話は意外で、こんな古い話なのにこんなにおもしろいのかというか、今っぽい、と思いました。RPGみたいで。

邪悪なジンと闘う姫
(「王子である三人の遊行僧とバグダードの五人の娘の話」より)
 

西尾:確かにね、けっこう絵画的というか動きがあって。最後は結局、ひとつ失敗してしまったために自分の身を焦がしてしまうという。そこもちょっと最初読んだときは、え、こういう展開なの?って感じですよね。

深緑:同じ枠物語の話、少年が何日までに自分は殺される、命を落とすようだと言って、じゃあ見守ってあげようと言うと、やっぱり少年を殺してしまった、という話も、すごくミステリーぽいというか、イタリアの作家のディーノ・ブッツァーティが書きそう。今の作家が書きそうなものに似ているというか。物語をつくる人って変わらないのかな、という気がしました。

西尾:少年を守ろうとしているけれど、予言どおりに殺してしまうという不条理というか。その話はぼくも翻案して、『子どもに語るアラビアンナイト』という本のなかで、「星のさだめ」というタイトルにして、子ども向けにかなり変えて書いたんですが、子どもにはかなりウケますね、これは。

深緑:やはり、おもしろい、ってなるんですか?

西尾:そうですね。そのへんが、人間の運命観というのが、イスラム的なところもあるけど、もうちょっと深いところもある、というところで、日本語にしても子どもにウケる部分がなんとなくあるのかなと。それがアラビアンナイトの世界文学になっていく普遍的な特徴かなと思うのですが。

 ところで、千二夜目を書くとしたらどうしますか。

深緑:わりと考えるんですよね。昔、BBCでやっていたアラビアンナイトのドラマ、映像作品があって、それの結末だと、仲直りはするんですが、王様とシェヘラザードが一緒に戦に行って、シェヘラザードが軍師的な能力を発揮して戦争に勝利するんです。自分でつくるとしたら、落語の「死神」の志の輔さんがやっていたバージョンみたいなオチのつくり方が好きです。その中で、自分の命がロウソクになっていて、死神にそのロウソクの前に連れて行かれるシーンがあります。元のバージョンだとロウソクを手にとって、「あー消えちゃうぞ、消えちゃうぞ、ほおら消えた」といって終わる。志の輔さんはそのロウソクの火を一生懸命生き延びるほうのロウソクに移して、それを持って帰る。持って帰る途中で明るくなって、死神が「それ、もういらないんじゃないの」「それもそうだ」とふっと消しちゃうっていうオチがあって、さっきのエドガー・アラン・ポーのなんかはそれに近いのかなと。個人的には、できればシェヘラザードに生き延びてほしいですが、物語作家として書いておもしろいのは、たぶんポーっぽいのだと思いますね。

時代背景と人間観

西尾:全体のテーマとして人間の死というのが置かれていますしね。そのわりにはからっとした笑いみたいなのがあるから、読み続けていけるわけですけれども。

 次のテーマにいきますが、今のこういう現状を考えて、僕もはたと気がついたのですが、ガランが翻訳の底本にしたガラン写本というアラビア語の写本がありますが、それは早くて14世紀か遅くて15世紀の初頭、成立自体は13世紀までいけるかもしれませんが、考えてみると、それは中東でペストが蔓延していた時代なんですね。

深緑:なるほど。

西尾:それから1世紀ほど遅れてヨーロッパでペストが蔓延して、有名なボッカチオのデカメロンなどが書かれた時代になりますが、中東は少し早くて、14世紀からペストが流行って、カイロの人口の3分の1が亡くなったという記録もあります。おおげさかもしれませんが。常に死が隣りにあるような時代。医学が進んでいる今よりもっと悲惨な時代だったと思う。中東というのは都市文化が古くから発達し、人が集まって住んでいる地域なので。アラビアンナイトを誰が書いたのかというのは永遠の謎で、私もわからないけれど、あきらかに民話や昔話のようなものではない。深緑さんもおっしゃったように、当時の作家とか、そういった手練の人が物語を紡ぎあげていって、ひとつのテーマに沿って書いていったのではないか。最初のシャフリヤール王をめぐる死の匂いというのも、時代背景があると思うし、簡単に言えば、「おもしろい話をせえへんと殺すぞ」みたいな、助けて欲しかったら、あなたのライフヒストリーでもいいし、あなたが知っているオハコの一番面白い話でもいいから話してみいや、という展開でどんどん話がつながっていくわけです。

 僕の考えですが、民話とか昔話は特定の共同体とか村で、人々がどう生きていったらいいかというようなことを子どもたちに教えるような役割があった。そういう役割は、今は昔話ではなくてファイナルファンタジーのようなゲームに吸収されていると思いますが。そこからイスラム文明とかヨーロッパ文明とか広い文明世界で共通する、もっと普遍的なテーマの物語群というのを、誰がつくったかというのは、難しいですが。たとえば、いろいろなお話をオハコにして語り部のように移動しながら語っていく人はいたるところにいますし、宗教的な語り部もいますよね。仏教でも庶民に辻説法するのに、物語を入れ子にしていくという方法を誰かが考えついて、そうすると長大な物語を書けるし、ひとつのテーマで書けたのかな、という気がします。

 ガラン版が半分出た頃に、深緑さんが『図書』(2019年12月号)の記事のなかで、「古くから現代まで続く問題の根を見たような気分になる」という文章をお書きになっていますね。

 おそらく特定の村とか共同体が伝えているときには、その共同体特有の特徴が出ているけど、文明的なものになると、人間のある種普遍的なものが出てくるだろう。さきほど言ったような14世紀の非常に極限的な中東世界の状況のなかで生まれたものが、17世紀から18世紀のフランスという、おそらくルイ14世の治世下でアンシャンレジームのもっとも繁栄した時代に翻訳されている。そういう非常に繁栄した時代というのは、文化も熟爛して人間についていろんな考えが出てくる。そのなかで、ガランがなんらかのものを感じ取って翻訳しただろうし、それが世界文学になっていく契機になった社会的な背景だと思うのです。

千一夜物語のつくられ方

西尾:だから、21世紀の、日本や東アジアだけでなく地球全体でみんながどうやって生きていくのかということを考えないといけない時代にあって、いろいろな問題が千一夜物語のなかに噴き出ていると深緑さんが感じたのは当然かなと思います。そういうところに、ご自身の作家としてのお仕事と絡めて何を感じたのか、お聞きしたいんですが。

深緑:えーと、そもそも私は千一夜物語のつくられ方がよくわかっていないんですが。これは一人の人間が書いたことになっているんですか? それともいろんな人間が書いている?

西尾:それは謎ですけど、誰かが書いたという説もあるんですよ。10世紀頃にいたアスマイーという学者が書いたという説もあります。ただいわゆる民話集みたいなものでもない。僕が好きなのは「こぶ男の物語」というのですが、ほんとに落語の世界みたいで非常に秀逸です。僕はそのなかの床屋が出てくるところが大好きで。何巻かの最後のところで物語がいっぺん切れているのですが、絶対次が読みたくなるだろうという展開になっている。

深緑:同人小説ってあるじゃないですか。二次創作といわれるもので、昔リレー小説というのがはやったんです。だれかが書いて、それを次の人が続きを書くといってつないでいった文化が、私が中学生か高校生くらいのころにありました。あとで森見さんの『熱帯』を読んで枠物語っていうのを知って、あらためて千一夜物語を読んで、何かに似ていると思ったら、昔のリレー小説なんです。違う人間が書いているので全然違う話が入ってきたりとかもあって、そこがおもしろい。

 なので、作品としてというより小説家としてみたときには、教訓めいたお話もあれば、さっきの5人の娘の話みたいに思いっきり物語がおもしろいことにふりきっている話もあって、そういうのを見ると、当時のアラブ世界は価値観がごった煮というか、いい意味でおもちゃ箱みたいでおもしろい。女性蔑視とかそういう価値観もあるのかもしれないけど、女の人に対する不浄かそうでないか、みたいなのも、今に通じるところもあるのかな、とか、いろいろ考えましたね。

西尾:リレー小説と言われたけど、たしかに今回、ガラン写本を元にガランがフランス語にして、それをまた僕が日本語にしたんだけど、解説でも書いたようにガランが使った写本は3巻しかない。それは282夜の途中で途切れていて、その続きがどうなのかというのが大きな問題です。一番の問題はカマルッザマーンのお話で、最初のところで途切れている。その話は千一夜にはたぶん入っていて、写本自体が伝わっていない、ということかもしれない。そう考えなくても、さきほどいったように、いろんなテーマを扱いながらも、一連の死をかけて語ることが最低限のルールなので、おそらくリレー小説のように何人かの人が書いたというものではたぶんないと思うのですが、できあがりかたとしては似ているかもしれないね。

 当時、たぶん創作というのはなかったと思うんですよ。ゼロからつくって書く、というのは。仏典の中に「旧雑譬喩経(くぞうひゆきょう)」という、古いインドの説話や、仏教説話、またお釈迦さんに絡めて、それこそ全然仏教と関係ない話までありとあらゆる話がはめ込まれてお経になったものがあって、江戸時代の日本にも入っていたらしいんです。このような形で、千一夜の枠物語自体は、日本の仏教のお坊さんあたりは類似のお話を知っていたらしいというのはわかっています。

 千一夜物語も、そういういろんなお話を雪だるま式に集めて、一つのお話になっていった。あるいはそういうお話を誰かからきいて、プロの語り部が自分のアンチョコといいますか、語りにつかう元ネタ本を書いていった。ガラン写本も、そういう記号というか、ここで語り部が語る、みたいな、そういう文言が入っているので、もともとはそういう語り部のアンチョコだった可能性もある。

 リレー小説のようにみんながつないでいくのではないですが、いろんな人がつなげてきたお話を語り部がうまく語っていったのだと思いますね。そういう意味でいろんな文化を超えて、さきほど僕が「文明」という言葉をあえて使ったのは、いろんな価値観を平らにするというか、でこぼこを丸くし、みんなに共通するような価値観をつくり上げていったと思う。それがイスラム文明みたいなものになるのだろうし、それがヨーロッパに入るとまた違った土壌のなかで発展して、みんなに共通のものになってきたので、そういう意味では現代まで続く根があるんでしょうね。

 だから元々は民話のように特定の社会に根ざしたお話のなかで、みんなに共通するようなテーマが研ぎ澄まされていったのかもしれない。たとえば、ガラン版では「女奴隷」というのがやたらと出てくる。単純に今問題になっている黒人の奴隷の問題に直結するのではないのですが、黒人に対する蔑視的なものやユダヤ教徒に対するものとか、アラブ人とイラン人のあいだの確執、スンナ派とシーア派との対立とか、こういう問題もたしかにはらんでいます。これをまたガランがそのときの時代に合わせて少しずつ変えていったと思います。

後編につづく~

ガラン版千一夜物語 特設サイトはこちら↓

タグ

バックナンバー

関連書籍

閉じる