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西尾哲夫×深緑野分トークイベント「世界はいつもミステリアス」

西尾哲夫×深緑野分トークイベント 世界はいつもミステリアス!(後編)


西尾哲夫×深緑野分トークイベント
世界はいつもミステリアス!(後編)
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異文化を書くということ

西尾:深緑さんの本職のテーマについてお聞きしたいのですが、ご自身は本格ミステリー作家というふうには思われていないのでしょうか。トリックや動機づけをやたらと考えて、エラリー・クイーンではないですが、密室殺人とか考えつくありとあらゆるものはすでにつくられている。ぼくはミステリーが結構好きで昔から読んでいて、日本語で書かれた面白いものは全部読んだと思います。だからフランス語を勉強しはじめたときも、勉強のためにフランスのミステリーを読みたいなと思って、色々探して読みました。それでイギリスのミステリーとフランスのミステリーは違うな、とわかって。

深緑:ああ、そうですね。

西尾:メグレ警部の物語も日本語に結構、訳されていて、わりと知られていますね。どこかで読んだけど、パリ警視庁を悪く書くと、ミステリー大賞をもらえないので、フランスの翻訳ミステリーはそういう小説らしいんです。最初はフランスのミステリーはどれがいいのかといろいろ探したけど、自分に合わないので、ホームズの仏訳版とか読みました。ホームズのパスティーシュ(模倣作品)みたいなのがいっぱいあるじゃないですか。そういうものを読んだり。僕が今、凝っているのは、クロード・イズネルというペンネームの姉妹が書いている、19世紀末のパリを舞台にしたものですが、本屋さんが主人公になって、「モリ」という日本人が出てきて、時代的にかぶるので、森鴎外のことかなと思ったのですが、森鴎外ってパリにはそんなにずっといなかったですよね。

深緑:まあ、留学先はドイツですからね。

西尾: その本のなかでモリという人がワトソン役で出てくるんだけど、どうもワトソンはお医者さんだから科学的な推理をしてホームズに「違うよ」と心理面での動機づけをしていくわけですよね。そういう意味ではシャーロック・ホームズというのは19世紀のイギリス・ロンドンにおける、究極の犯罪をおかすときの動機を人間の性格であるとか、心の動きというものにあわせながら、描いていったものです。ミステリーってそういうものだろうと思いますが。

 民話と違うのは、民話に出てくる登場人物は心の動きがなくて、心の動きを動作で表すという「物語人間」(トドロフ)。心を描かないのが民話。桃太郎がどんな動機付けをしているかとか、孤独に悩んで鬼退治に行くことはないわけです。鬼を殺して最後にかわいそうに思って助けたとかそういう展開はない。それに対し、ミステリーは近代の個人が社会をつくっていく時代に、個人がどういうふうに社会と関わっていくかを描き出すときに生まれてきたジャンルです。ファンタジーとたぶんペアになるような(部分)があると思うのですが、深緑さんの本自体が、一件の殺人を元に語っていくスタイルなので、ある意味ミステリーというかディテクティブストーリーという面がありますよね。そのなかで、ベルリンの終戦直後のドイツ人の女性を主人公にして描いていくというのはけっこう大変だと思います。深緑さんはドイツでの生活が結構長かったんですよね?

深緑:いや、生活はしていないです。取材にちょっと行っただけで。

西尾:日本が近代化していくなかである部分ヨーロッパ化していったので、ヨーロッパ人の心の中を描くというのはとっつきやすいのかもしれないけど、たとえばベドウィンのシェイフ(族長)を主人公にしたのとかはなかなか書けないと思います。文化人類学のなかで、ぼくは言語学、言葉の面から社会に接近しているので、そういう異文化の人たちがどういう価値観をもって、どういう動きをするかを知るためにフィールドワークをする。要は彼らと同じ視点にたちながら、他者というか日本人に戻って客観的に観察する、というのを繰り返しながら、彼らの文化を描いていく。それを民族誌、エスノグラフィーといいますが、なかなか解けない文化人類学の一大問題として、他者の心の根まで描いていくということがある。ある村に飢饉があって、わたしがつきあっているAさんという人が、村の人達を助けるために奮闘する、というときに、その奮闘自体が特定の集団(村)に向けられていて、別の集団はその人のことをよく思っていないかもしれない。そういうのを全体として書こうとすると、別の集団の人の考えも描いていかないといけない。

 それは小説と同じで、その人の文化的な価値観の世界をえがきながら、神様の視点でえがくわけにもいかないし、われわれは第三者という客観的な立場なので、できるだけ影響を与えないようにしようとするが、それは不可能なわけです。ソニーのウォークマンを持ってその社会に入っていくだけで、社会が変わってしまうわけで、それはありえないのですよ。その関係性のなかで描くとなると、小説家と一緒で、どこの視点から、どこからみた社会を書くかというのが難しい。深緑さんはあの作品のなかでアウグステさんの個人語りからはじめて、非常に細かい取材をされているのでびっくりしました。たぶん日本のどこか博多あたりで事件が起こっているのだったら、そこまで描写しなくてもいいかもしれませんが。ユダヤ人問題というのもあるし、そういうアウグステさんを描くということ、事件の背景を描くということに、どういうふうにテクニックを使っているんだろう、と。

深緑:そうですね、先に結論を言ってしまうと、違う文化の人間を、一介の物語創作者が書くというのは、民族的というか文化の素養的な側面で違いも生じてくると思います。基本的に私は踏み台になろうという気持ちで、踏み台というか架け橋というか、私の書いたもののさきに、ドイツ人とか経験した人が書いた物語とかがあって、それを研究している日本人のかたがいらっしゃったりします。そういうものすごくたくさん本があるところに、いきなり行くという人はなかなかいないです。学術的興味がある人だったらいいですが。そういうときにフィクションというのは、日本人のわたしを通して書くことで、どちらかというと翻訳というより翻案みたいなものになるんです。アウグステもそうですが、日本の人が読んでもすんなり聞けるように、書くときに名前を工夫するんですね。

西尾:さっきのモリ氏と同じだね

深緑:そうです。だから、日本の人が読んで認識しやすい名前にしたり、ちょっと甘くするというか、ハードルをさげて読んでもらって次にいってもらいたい。私を経て、もっとちゃんとした話とか当事者の人の声とか、研究されている方のほうへ行きましょう、という気持ちがあります。なので、私、参考文献とかをすごく細かく書いています。そう思ってないと自分のことしか書けない。たとえば、女の作家が男を書くとか、男の作家が女を書くとか、セクシャリティとかの自覚もありますが、誰を描いても自分じゃない人間を描いているのが物語創作者なので、本当に自分が知っていることしか書けないとすると、自分の話しか書けなくなっちゃう。厳密に言うと、物語創作者は常に誰かの体を借りたり、誰かの経験を借りたりして、勝手に想像してそれを物語化して消費している、というのには自覚的でありたい。そう思っておかないと調子に乗りかねない職業だと思うので。そこは自戒しているところです。

西尾:すごく今共感したのは、民族誌を書くというのはある意味客観的に顕微鏡をのぞくように特定の社会を覗いて細かく分解して、バラバラのパーツにして、それをもう一度組み立てるのが理想みたいな時代があったわけです。今でもそれを理想化している人もいるでしょうけど、単純に認識論的に人の心の世界をのぞくというのは難しいだろうし、そのひとが別の人をどう思っているか、その人もまたどう思っているか知るのは、なかなか難しいものがあると思う。

 そういう意味ではある意味、さきほどの深緑さんが言ったように、たとえば特定の社会を日本人である私が描くということの、橋渡しをする意味、というのは非常にわかる気がする。ぼくは今、中東地域研究をやっているのですが、中東世界を研究していていったいなにになるのかというのが、すごい疑問になっています。

 それはヨーロッパの人と国際共同研究というのをしなさいというので、イギリス人やフランス人などヨーロッパの人と研究していて、ぜんぜん皮膚感覚として違う、というのがわかってきた。

 ヨーロッパの人にとって中東というのは自分たちの文化の一部、キリスト教も中東で生まれたものだけど、身内であり、また十字軍をやったり、植民地化みたいなこともやったり、アイデンティティを確立していくための他者でもあった。中東の人にとってヨーロッパがどういう存在かというのはまた別の問題ですが。サイードがいうように、もの言わぬ他者としてのオリエントはあるのかもしれないが、その言い方は非常に一面的で、やっぱりオリエンタリズムというのは広い意味でのコミュニケーションが両者をつくっていっている関係なのです。それにたいし、中東と日本というのは離れすぎていて、なかなか自分のなかに内面化できないというか、描ききれない。ある意味では完全な他者として描くことはできるのかもしれない。でも、それはすごくフラストレーションになるわけです。だから、日本人が中東を研究するときには、やっぱりヨーロッパ絡みで考えたり、地球全体のなかで中東を考えたりして、日本人として世界とつながっていく、という研究をしなければならない。そういうのをすごく感じます。

深緑:ありがたいことです。

 「物語性」とは何か

西尾:そういうことを文字にして世に問うのがぼくたち人文学者の仕事だと思います。そのときに「物語性」というのがキーワードになってくる。ぼくの今の考えは、人間って、常に物語化するというか、Aという事件とBというものがあるとなにか関連付けてしまう。ホームズなんかはワトソン君の安易な関連付けを、ちょっと大きな目でみて、別の関連付けをしているわけです。AさんがいてBさんが倒れて血が出ていて、Aさんがナイフをもっている、それはどうみてもワトソンくん的に言うとAさんが殺した、ということになるけど、それは物語として何万通りもの可能性があるわけです。そういうときに人間のパターン化する力が働く。「情報はパターンだ」と誰か情報学者が言っていましたけど、パターン化のないところに情報はありえない。そうすると物語を描いていくというのはどういうことか、という根本的な疑問になって、つまり深緑さんが、ベルリンの小説を書いたときに、どこから最初に物語の種が出てきたんだろう、と思って。

深緑:「物語性」というのを最近私が気になっているという話を、対談前の打ち合わせのときにしていました。物語の種というのは、このあいだ森見登美彦さんと対談したときに、森見さんも私とだいたい一緒だったのですが、普通に生活しているときや、それこそ人文書や学術書を読んでいるときなどに「あ、これおもしろいな」と思ったところからどんどん話をつくっていくことが多い。ベルリンの話は、もともとは主人公が逆というか、途中で出てきたカフカっていうおちゃらけた男、あっちが最初主役だったんですね。主人公のアウグステは脇役というか、その人についていく、みたいな立場だったんです。

 なので、最初から主人公がきっちり決まっている人もいると思いますが、私の場合はわりとゆるくやっていくタイプです。時代が決まっていると、プロット立てるときも時系列が歴史として決まっているので、それにそって話をつくっていく。完全にオリジナルだと、年表じゃないけど、自分で時系列を決めてはめていったりもするんです。荒唐無稽な物語というか、スター・ウォーズみたいにドンパチしているやつとかが私は結構好きですが、そういう話よりも、たとえばSNSが流行っているのは、身近な友人たちの生活を見ることによって、保証された物語、あまり危険のない物語がちょっと前までは求められていたのかな、と思っていて。

 コロナでまた様子が変わってきて、ファンタジーがこれからは流行っていくのかもしれないと思うのですが、人が物語を求めるというのはどういうことなのか私もよくわからなくて。自信がなくなるというか、ほんとうに物語を描いていていいのか、こんな状態に今なっているのに描いていていいのかな、という気にもなります。

西尾:それが作家さんの本務だと思いますよ。作家という職業がどこまで遡れるのかわからないけれど、たぶん古代からあったのかもしれないし。ぼくは言語学者なので、言葉がいつ生まれたのかというのにすごく関心があって、今の定説では10万年前くらいに人類が言語を生み出したといわれているけど、言語に近いものはゴリラやチンパンジーにもあるし、鳥やイルカでもコミュニケーションを取ると言われているけど、じゃあなにが人間と違うのかと。ネアンデルタール人がどういう言葉をしゃべっていたのかというのに関心があったのですが、考古学では、言葉は出てこないのですね。でも最新のテクノロジーを使って頭の骨からどういう発音ができたのかとか、そういうところまである程度わかってきたみたいです。あるいは墓をつくったりしているのでコミュニケーションがとれている、とか。ぼくが最近読んだ本の中でおもしろかったのは、歌うようにしゃべっていたと。普通にしゃべるなかで、「ふかみどりさんは~、きれいだね~」みたいな感じで。

 ベリーダンスの研究では、歌に出てくる言葉と日常的な言語の役割の違いみたいな研究があります。踊りというか儀礼も含めてですが、言葉がゼロになる瞬間があるんですね。要するに、歌いながら踊る、というのがありますが、あるときに歌の言葉がなくなって踊りだけになる。儀礼も、いろんな儀礼をするときに、言葉がゼロになる瞬間があって、そのときに言葉がどういうふうに身体的な動作に転化していくのかな、と。人間が言葉を生み出したときに、言葉の役割はいっぱいあるけど、最大の役割は、普通考えると、こういうふうに会話して、意味というか、ある種の命題をお互いに伝えあって、議論していく、情報伝達だと思うじゃないですか。だけどじつは言葉のそういう役割は3分の1ぐらいで、あとの3分の2はグルーミングというか言葉で繋がり合うことだ、というわけ。

盗賊の頭領の前で踊るモルジアナ
(「アリババと、女奴隷に殺された四十人の盗賊の話」より)
 

 もうひとつの最大の役割は、過去とか未来とか違った場所での出来事を再構築するというか、見たようにしゃべるという役割があって、たぶんそういうところから小説家って出てきたと思いますよ。「物・語る」の「かたる」、日本語の「かたり」にはいい意味と悪い意味がありますが、物語性というのは人間が生きていく上では、多分絶対ないといけない。千一夜のなかでは今まで生きてきたなかで自分が一番気に入った物語をしゃべってみろ、というわけですね。それは多分自分の生涯のなかで、一番パターンとしてあった物語を語って、そのパターンがずっと続いていく、という世界が描かれるけど、世の中そうじゃなくて、いろんなパターンがある、というのを、教えてくれるのが作家というか小説家の本務だと思うんです。

 だからこういう予測不能な時代にファンタジーが流行るというのは、こういう、もうひとつのやりかたもありますよ、ということを示してくれるから。そういうことを作家は語ってくれないといけないと思います。

深緑:なるほど、もう一個のやりかたを。責任重大ですね。

西尾:義務というか、作家という才能をもった人が、遺伝子を受け継ぐわけじゃないけど、時代や地域をこえて、受け継がれているわけですよね。そういう人の役割ってやっぱりあると思います。SNSで語っているような、自分の物語をパターン化して、こういうのをどう?とみんなに対していって、それに対してみんなが意見をいうような。物語性があるかないかではなくて、あると思えばあるだろうし、全然ないという可能性もありますよね。それは近代小説が陥っていったひとつの方法ですよね。フィネガンズ・ウェイクなどの作品は、ものすごい数の登場人物が出てきて、お互い自分の内面と相手の内面を語っているけど、物語性がまるでない。ある特定の時空間のなかで、こういう人がいました、という小説。だから、現実というのはそういうものかもしれないけれど、沢山の人がばらばらにいて、でもそれだけではつまらない。あの人、ぼくのこと好きなんやろうかとか、相手がどう思っているかというのを考えながら物語を作っていってほしいなと。違いますか。

深緑:おっしゃるとおりというか、そうだなと思います。でも、最初に『ベルリンは晴れているか』にしろ、『戦場のコックたち』にしろ、なんで舞台がアメリカやドイツなのですかと言われたときに、日本と違うもの、違う視点を、日本人が書いていないから、書いてみんなにみてもらいたい、という思惑は、たしかに願望としては結構強くあるな、とあらためて思いました。

 

 

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