人はみんな〈秘密〉を抱えている (第1回/全5回)
「おれのお父さんはあなたの娘だったんです」──実話にモデルをとった驚愕のストーリー『トランペット』(ジャッキー・ケイ著/中村和恵訳)。 現代スコットランドを代表する作家・詩人のジャッキー・ケイの傑作は、どんな小説なのか? 〈LGBT〉と〈世界文学〉をキーワードに語った刊行記念トークショウの内容を、5回に分けてお届けします。
出演:中村和恵、都甲幸治、平凡社ライブラリー編集長T(2016年12月24日 下北沢・本屋B&Bにて)
How we tell the truth: world literature, queer life his/her/story and beyond
(panel discussion re.Japanese translation of Jackie Kay Trumpet #1)
NAKAMURA Kazue x TOKO Koji x T (chief editor of Heibonsha Library)
『トランペット』は「LGBT小説」?
都甲 本日は2016年10月に岩波書店から出た翻訳小説、ジャッキー・ケイ作『トランペット』を主なテーマとしながら、LGBTと文学にまつわる話をしていければと思います。最初に本作訳者の中村和恵さんから、どうしてこの作品を訳されたのか話していただきましょうか。
中村 『トランペット』の原作が出たのは1998年で、翻訳が出るまでに少し時間がかかりました。この作品の主人公はジョス・ムーディという有名なジャズ・トランペット奏者で、この人が死んだところから物語がはじまるのですが、死後はじめて彼がじつは女性だったことがわかる。ミリーという彼の妻だけがそのことを知っていました。ジョスは生物学的には女性でありながら、社会的には男性として通し、結婚し、養子ですが息子までいた。世間はそれで大騒ぎになる。なにも知らなかった息子のコールマンは、パニックして腹を立て、ゴシップ紙の記者の取材に応じて暴露本を書こうとする。
ジョスもコールマンもアフリカ系の血をひく黒い肌のスコットランド人で、それも大切な設定なのですが、そういう人種のことなどはすっとばして、変った性癖の人が出てくる「変な本」と受けとめられてしまうんじゃないか。原作が出たころの日本では、そういう懸念がありました。「そうじゃないのにな」という思いがあった。その後LGBTという語が広まり、そういう人たちがどうやら結構いるらしい、それはべつに異常なことではないという空気が少しずつ出てきて、いろいろと本も出はじめました。
たとえば最近のものでいうと、『レズビアン的結婚生活』(東小雪ほか著)、『同居人の美少女がレズビアンだった件』(小池みきほか著、以上2点イーストプレス)、『百合のリアル』(牧村朝子著、星海社新書)などがあります。それに今日来ていただいている平凡社ライブラリー編集長Tさんが手がけてこられた『レズビアン短編小説集』(利根川真紀編訳)、『ゲイ短編小説集』(大橋洋一監訳)、『古典BL小説集』(笠間千波編)、『クィア短編小説集』(大橋洋一監訳、以上すべて平凡社ライブラリー)など一連のものが、新たに刊行されたり再版になったりしはじめた。こういう、少し空気が変わったかなという印象のなかで、そろそろ『トランペット』を出してもわかってもらえるかなという期待があって、やってみようと思ったわけです。
都甲 この本、帯にいきなり「おれのお父さんはあなたの娘だったんです」とある。なんの説明もなくこう言われても、なんのことだかわからなくて、なぞなぞみたいな感じでした(笑)。これは実際に登場人物が言うせりふですよね。
中村 息子のコールマンが、ジョスの母親、つまりお祖母ちゃんに向かって言うことばです。これから読んでくださるかた、「そんなのネタバレだ!」って、がっかりしないでくださいね。ネタバレの後の、それで、だからどうなの? ってところが肝心な話なので。
コールマンは養子なんだけれど、お父さんのジョスと顔が似ているんです。ジョスは、スコットランド人のお母さんと、どの国から来たかはわからないけれど黒人のお父さんとの混血で、自分と同じ肌色の子を養子にした。血はつながっていないけれど偶然容貌が似ていて、コールマンは周りからジョスの本当の息子とみられることが多い。でも、お父さんはすごく有名なジャズ・トランペッターなのにオレはお父さんみたいになれない、才能がない……と、コンプレックスでじくじく悩んでいる。ほんとうはお父さんが自慢で、大好き。ところがその憧れのお父さんが、死んだら女だった。それでこの子は、グレる。
都甲 この息子、わりといい歳なんですよね。
中村 もう30歳を越えてるんですよ。なのにグレる(笑)。この小説、登場人物がたくさん出てくるんだけれど、みんなそれぞれに気にしていることがあって、じつはLGBTというのはそのうちの1つでしかない。ほかにも大変なことはいっぱいある、みんな事情があるよねっていう話なんです。たとえばこの息子についても、「養子」っていうことは大きい。
都甲 血のつながりがない人たちが集まって、はたして家族になりうるのか、ということはこの本の大きい主題になってますね。
中村 そう、家族の物語です。そして人種。それらが切り離せない、みんなひっからまった事態として1人の人間の人生をかたちづくってることがわかる。
都甲 日本だと、日ごろ人種のことはあまり考えないのが習慣のようになっていますが、実際は日本にも、バッシングされている韓国系・中国系の人がいっぱいいる。普段の考え方からはちょっと移動して読んでみるといいんじゃないかと思います。
〈普通の人たち〉の物語
中村 先ほどご紹介したように編集長TさんはLGBTものの古典文学アンソロジーを何冊も出されているのですが、こうした作品をたくさん読まれてきたなかで、この『トランペット』をどうとらえられたか興味があるのですが。
編集長T 読み終わって、ひじょうに身近な、普遍的な物語だなというのがありました。主人公のトランペット奏者が亡くなったところから話が始まっていますが、死というのは誰にでも訪れるもので、唯一本当に平等なものかもしれない。だからより普遍的な物語になっているのかなと思います。それに主人公の一家以外にも登場人物がたくさん出てくるんですけれど、彼らがみんなそれぞれ真面目に仕事をして他人のことを思いやりながら生きているんですね。その人たちが、「男性だと思われていた人が亡くなってみたら女性だった」という事実に直面したときに、どういうふうに対応するか。
中村 普通の人がね。
編集長T そう、普通の人。それぞれお医者さんだったり、葬儀屋さんだったり、戸籍係だったり、日常の生活のなかで自分の仕事をしている。そこにいつもと違う遺体、いつもと違う状況が現れたときに、みんな戸惑うんですね。
中村 死亡診断書の「男性」と書かれた欄に、赤ペンで線を引いて「女性」と書きなおしてあったりする。
編集長T 「自分はこれをどうしたらいいんだろう」と、それぞれの人がそれぞれの立場で、真剣に対応しようとする。そういうところに、みんな愛すべき人だなあと感動しました。ほんとうに「普通の人たち」の物語なんですよね。
都甲 大学では「ジェンダーとセクシュアリティは違う」などと習って、「生物学的な男性・女性」と「社会的な男性・女性」は違うということは、頭ではわかるじゃないですか。でも、だからといって腑に落ちるわけでもない。この『トランペット』のなかでは、たとえばジェンダー理論なんて聞いたことがない、ジュディス・バトラーなんて一生読まないような葬儀屋のおじさんが、目の前で男性が女性に変わるという体験をする。遺体の衣服を脱がせてみたら男性が女性に変わり、スーツを着せてみたらまた男性に変わり、ああ、こんなことがあるんだと。そういうことからもっとも遠そうな人がふっと受けいれたり、やはり受けいれられない人も出てきたり、一様じゃない。そういうところがすごくいい本です。
中村 その葬儀屋さんはイギリス人だけれど、最初にジョスの検死をする女医さんはインド人なんですね。
都甲 クリシュナムルティ医師ですね。なんだかありがたい感じの名前です(笑)。
中村 神様みたいな(笑)。そして戸籍係はバングラデシュ移民。つまりこの話に出てくるマイノリティは、じつはLGBTだけじゃない。いろんな意味でのマイノリティが出てくる。コールマンだってヘテロだけれど定職がなく引きこもってしまったり、ブラック・ブリティッシュとして差別を経験してきて、イギリス生まれなのに肌色のせいでいつもよそものや犯罪者扱いされることに深く悩んでる。
みんな秘密をかかえている
中村 最後のほうに出てくる人物の1人に、亡くなった主人公の少女時代の同級生がいるんですけれど、私は彼女がすごく好きなんです。メイ・ハートという名の80幾つのおばあちゃんで、人間で一番大切なのは歯だ、「歯はその人そのもの」なんて言っている。
都甲 少女のころのジョスへの恋ごころを今も持ちつづけているおばあちゃんですね。
中村 「オトコオンナ」だったジョスの暴露本を出すためにコールマンに取材している野心満々のジャーナリスト、ソフィーが、このおばあちゃんのところにも行くんです。メイおばあちゃんは彼女に、男性の姿をしてトランペットを吹いているジョスの写真を見せられて、え、このトランペット吹きというのが、私の知っていたあのジョージィなの?とびっくりする。ジョージィというのはジョスが少女だったころの愛称。その場面を読んでみます。
これは百合萌えですよね、まさに。
都甲 この本でいちばんクィアなのは、このおばあちゃんですからね。
中村 そうなんですよ、ほんとうに。
都甲 ジャーナリストのソフィーはそれが全然わかっていなくて、写真を見たメイおばあちゃんが泣いているのを見て、「“昔の級友の虚偽にひどく動揺し、泣き出してしまった”と書こう」なんて思っている。この最高にダメなジャーナリスト像もまた楽しい。
中村 ソフィーは、暴露本でひと山あてることで自分のコンプレックスを解消しようとしているのよね。サラという自分のお姉ちゃんのことばかり気にしていて、自分だって優れたところがあるんだって家族に認めて欲しい。でもソフィーはほんとうにダメなわけじゃないの。どこかで、そんな自分や世間のことを、よくわかってるんです。
都甲 そう。物語の最後になって、なんでみんなこういう暴露話に惹かれるかというと、すべての人がいくらかは倒錯してるからだ、なんて極端に冴えたことを言いはじめる。
中村 そこを読んでみます。
人間ってみんなどこかに秘密を抱えていて、ほんとうのことが言えないで胸にためていて、どういうふうに言えばいいのか悩んでいる。この小説ではそれぞれの秘密をそれぞれの人物がジョスの死をきっかけに語っていく、つまり秘密を読者と共有していくうちに、「自分は特殊な人間だ」「自分だけうまくいってない」っていう悩みがすこしずつ消えていくような流れが生まれる。そういうことじゃないんだな、どうとでもなりえる、ラベル貼りなんてどうでもいいことなんだ、と。「アイデンティティ」ということばが、すごくチャチにみえてくる。そこに拘泥する気持ちがほどけていく。
都甲 アイデンティティ、自己同一性というと「あなたは誰ですか」という属性、ゆるぎない「自分探し」のように思われがちですが、全然そんなことはない。人間ってもっと流動的というか、その時その時じゃないですか。ジョスとミリーの夫婦も、LGBTだからどう、ではなくて、「好きになったんだからいいじゃない」「そこに嘘はないじゃない」という感じですよね。
編集長T 奥さんのミリーは、ジョスが女性であることを最初から知っていたわけじゃないんですよね。
中村 単に惚れたのよ。
編集長T 惚れて「かっこいい」と思って、恋がはじまって。
中村 でもあるとき、どうしてなかなかエッチにいたらないんだろう、と思いはじめて。
都甲 「よっぽど古風な人なのね」なんて思ったりしている(笑)。
中村 その後の展開は驚くほど大胆。まっすぐだから。かれらの気持ちにはなにひとつむずかしいこと、いりくんだことなんてないのよ、ただ一所懸命な恋なの。
1966年生まれ、札幌市出身。詩人、比較文学研究者、明治大学教授。著書に『降ります』『地上の飯』(ともに平凡社)、『日本語に生まれて』(岩波書店)、詩集『トカゲのラザロ』『天気予報』(ともに紫陽社)、訳書にアール・ラヴレイス『ドラゴンは踊れない』(みすず書房)、トレイシー・K・スミス『火星の生命』(平凡社)などがある。
都甲幸治(とこう・こうじ)
1969年福岡県生まれ。翻訳家、早稲田大学文学学術院教授。著書に『きっとあなたは、あの本が好き。』『読んで、訳して、語り合う。都甲幸治対談集』(ともに立東舎)、『21世紀の世界文学30冊を読む』(新潮社)、『狂喜の読み屋』(共和国)、訳書にジュノ・ディアス『オスカー・ワオの短く凄まじい人生』(共訳、新潮社)などがある。
平凡社ライブラリー編集長T
平凡社編集者。2014年より現職。『レズビアン短編小説集』『ゲイ短編小説集』『古典BL小説集』『クィア短編小説集』など、通称LGBT系ライブラリーを企画・編集。営業Sとともに平凡社ライブラリーのツイッターを担当。