〈家族をつくる〉ということ(第3回/全5回)
「おれのお父さんはあなたの娘だったんです」──実話にモデルをとった驚愕のストーリー『トランペット』(ジャッキー・ケイ著/中村和恵訳)。 現代スコットランドを代表する作家・詩人のジャッキー・ケイの傑作は、どんな小説なのか? 〈LGBT〉と〈世界文学〉をキーワードに語った刊行記念トークショウの内容を、5回に分けてお届けします。
出演:中村和恵、都甲幸治、平凡社ライブラリー編集長T(2016年12月24日 下北沢・本屋B&Bにて)
How we tell the truth: world literature, queer life his/her/story and beyond
(panel discussion re.Japanese translation of Jackie Kay Trumpet #3)
NAKAMURA Kazue x TOKO Koji x T (chief editor of Heibonsha Library)
※第2回「〈LGBT〉のリアル」はこちら
LGBT文学に出会う
中村 ところで、皆さん気にしてらっしゃるのは、この話がどう「世界文学」と関係あるんだっていうことかなと(笑)。
都甲 そうそう。「LGBTと世界文学」というタイトルなのに、世界文学の話は、まだほとんど何もしてないですからね(笑)。
中村 私がはじめてLGBTと文学がクロスオーバーするのに出会ったのは、パトリック・ホワイトのThe Twybone Affair なんです。トワイボーンというのは主人公の名前なんですが、その意味を汲んで「双生物語」とも訳せるでしょうか。男であり女である二重の生を生きた人の話。16歳で最初にオーストラリアに行ったときこのペーパーバックを買って、よくわからなかったんだけどちょっとずつ読んで、衝撃をうけた。70年代に書かれた小説です。
ホワイトはオーストラリアのノーベル賞作家ですが、今ではあまり読まれなくなっています。この人自身はゲイなのですが、作品はどちらかというと難解で、オーストラリアという旧入植者植民地で生きる人物が自らの存在意義を問うような長篇小説で知られています。ところがこのThe Twybone Affairは、南仏のリゾート地から第一章が始まるの。そこにギリシャ人の老人と若く美しい奥さまがやってくる。いかにもあやしい(笑)。そこに偶然オーストラリア人の夫婦も滞在してて、なんだかこの奥さんが気になってしかたがない。章の終わりでギリシャ人の老人が死に瀕して、自分の美しい奥さんに手をさしのべながら、「my boy」と呼びかける。
都甲 いいねえ(笑)。
中村 世界BL文学全集を編むとしたら必ず入れたい一冊ね。
この「奥さま」は、ほんとはエディ・トワイボーンっていうオーストラリア人男性で、明らかにゲイあるいはMTF(男性から女性へ)のトランスセクシュアルなんだけど、オーストラリアにいるときは男でいなくてはならないというプレッシャーをすごく感じてるの。ヨーロッパに行くと、やっと女性的な自分を解放できる。そういうナショナリティや入植者植民地のマチズムの問題などが重なりあっている小説。
エディがオーストラリアの牧場で働く章では、男にレイプされる場面があるんだよね。『トランペット』もセックスの場面がはっきり書いてある。こっちはすばらしく幸福な場面としてだけれど。LGBTが登場する世界文学の名作というのはたくさんあるけれど、じつはリアルなセックスって、意外に描写されてはいない気がする。とくにレズビアンセックスは具体性がひくい。
中村 さきほどの『男に恋する男たち』もそうだけれど、曖昧にされているためにわだかまっている数々の妄想や誤解があると思うんです。ポルノグラフィックなものを期待される方には申し訳ないんだけれど、そういうのとは反対の、マター・オブ・ファクトで妄想を捨て去れるような、そうした描写は大切だと思うの。タブー視しているかぎり理解はないから。
都甲 たとえばカリブ海から中南米、アフリカ、アジアなどの地域では、なかなかセックス描写をそのまま書けない状況があるということも大きいかなとは思いますけどね。
中村 時代も影響していますね。『レズビアン短編小説集』の作品でも、セックス・シーンはほぼないですよね。心理的な関係性が中心になっている。
都甲 ガートルード・スタインの、ひたすら「gay, gay, …」の繰り返しで書いてある作品(『ミス・ファーとミス・スキーン』)なんかは最高だけどね。
中村 旧来の世界文学の名作といわれるような作品とLGBTという主題は、じつはそんなに相性がよくない、やはり語りにくい、影の話とされがちだったというのは事実じゃないかしら。最近の作家が書いた現代小説にはずっと自由にこの主題が描かれていますね。以前も書かれてこなかったわけではない。でも傍流的な扱いが長く続いてきた。新しい世界文学の中のセクシュアル・マイノリティの存在は、だからこそ注目に値すると思う。
現代アメリカのLGBT
都甲 現代アメリカ文学には、そこそこLGBTものがあるんですよ。よく学部の授業でとりあげるのは、映画にもなった、アニー・プルーの『ブロークバック・マウンテン』ですね。この作品を読んだり観たりすると、毎回感動してしまう。
いろいろ端折って言うと、羊の放牧の仕事で、ひと夏山の上で一緒に過ごすことになった男の子どうしが関係を持つ。でも山から下りると2人ともそれぞれ女性と結婚する。その後、定期的に会うようになるんだけど、片方が死んでしまう。残された青年は、死んだ彼の家に行くわけ。すると奥さんが事情を知っていて、部屋に通してくれる。そうしたらクローゼットから、重ねて掛けられた自分と彼の服が出てきて、それを抱きしめてワーッと泣くシーンがあるんです。このシーンを毎回授業で僕がやって見せるんですよね。
他にデヴィッド・レーヴィットというアメリカの優秀な作家がいて、幾つか邦訳も出ていますが、『ファミリー・ダンシング』という本に収録された「テリトリー」という短編があるんです。主人公の男の子が自分の親に、「じつはゲイなんです」とカミングアウトする。親はリベラルだから、それを聞いたお母さんは「世の中にはそういう人もいるし、私はあなたを支持するわ」なんて言う。それで主人公は「今度ゲイ・パレードに出るから見にきてね」と言うんだけれど、お母さんは息子が彼氏と2人でパレードに出ているのを見た瞬間に、気絶してしまう。実際に何が起こっているのかをそのときやっと認識したんですね。主人公は、親がくずおれていくのをパレードのなかから見ている。親は寛容なことを言っていても、心のなかでは受けいれられないんです。こういう作品を授業でやって、学生の反応をみて楽しんでる部分はあるかな。
中村 それで思いだすのは、『トーチソング・トリロジー』という映画。あれも舞台はアメリカですね。ユダヤ系のわりと保守的な家の子どもがゲイになっちゃって、オカマメイクで舞台に出ている。それでとてもいい彼氏ができるんだけれど、その彼がゲイ・バッシングにあって死んじゃうんですよね。ところがそうしたことを自分のお母さんが全然理解してくれない。彼氏の死をめぐってお母さんと大喧嘩になるんだけれど、その家にはやっぱり養子のゲイの男の子がいて、その子がある種仲介的な役割を果たしていくんです。
長い間私の理想の家族って、『トーチソング・トリロジー』だったんだよね。「よその人たち」がなんとなく集まってつくったんだけれど、お互いがお互いの弱点や美点を理解し合って、なんとか一緒にやっていこうとしている。偶発性を楽しんで大事にしている。養子がおまえんちの親おかまだろっていじめられて喧嘩になって、ウサギ型もこもこスリッパ履いて憤然と出かける中年おかまって、ほんと愛に満ちてるよね。ファミリーって本来そういうものじゃないかな。血がつながっているから、法的に家族だからって相手を受けいれられるものじゃない、いろいろ対立しながら了解をつくっていく。与えられるものじゃなくて日々つくっていくものだと思うんですよね。『トランペット』にもそういうところがある。
日本ではまだ、同性カップルが養子を迎えることはむずかしいみたい(注 2017年4月大阪府で同性カップルが日本初の里親認定を受けました)。そういう事実にぶつかるたび、いろんなことを考えますね。ファミリーって何かなあ、っていうことを。
ナショナリズムを抜ける
都甲 『トランペット』にこういうシーンがありますね。お父さんのジョスが息子のコールマンに、家族のありかたの話をするところ。
ここ、すごくいいなと思いました。
ナショナリズムの問題を考えるとき、血がつながっているとか、同じ場所、同じ民族、同じ肌の色と、みんな「同じ同じ」になりすぎているんじゃないかと思うんです。でも「同じ」を追求しても、何もかも「同じ人」は2人といませんからね。1人のなかでも分裂しているくらいなんだから、究極的には「同じ同じ」の思考法は不毛でしかない。でもこのお父さんは、「違ってはいるけれどつながっていけるんだよ」という話をしている。
そして大事なのは、これは夢物語じゃないということです。『トランペット』は音楽の本でもあって、一緒にいい音楽をやるときだけは、みんな自分の外側に出られる、というんです。そうすればテレパシーみたいに内側の感覚がつながっていくから、お互いに属性は関係ないのが実感できるという話が、実際に音楽を演奏するシーンで何回も出てくるんですよね。これは一見ただの理想論に聞こえる話かもしれないけれども、この作品の中ではすごく説得力がある。そして音楽をやるということと、家族であるということがつながってくるんです。
家族や家系なんていうのはつくってしまえばいい。僕自身も文学を通して「関係ない家族」をつくっていくようなことをやってきたし、いまもやっているし、今後もやりたいのかなあ、と思いました。ナショナリズム的な方向の反対側に突き抜けるには、理屈で説得しても無理で、こういうやり方でないとダメな気がするんです。
中村 イデオロギーでナショナリズムを批判するとかそういうことではなくて、もっと地べたに近い感覚というか、生活のなかから、そういうこととは関係ないネットワークができていくんだという実感がありますね。
『トランペット』には、一見そういう変則的なコミュニティを受けいれられそうにない頑固なおばあちゃんも出てくる。イーディス・ムーアといって、老人向けの団地のようなところで1人で暮らしている。死んじゃったジョスの本当のお母さんなんだけれど、この人はただの保守的なおばあちゃんにみえて、なかなかおもしろい人なの。
都甲 あの、戸締まりを異常に気にする人ね。この人、ずっと部屋の給湯システムのことを考えているんだよね。でも最後までシステムがわからないまま終わる(笑)。
中村 そこ、おかしいよね。ちょっと読んでみます。
こんな感じ(笑)。そしてこのこうるさいお祖母ちゃんが、しばらく連絡の途絶えているジョス、つまり自分の娘のジョゼフィンに関して一番気にしていることは、最後に会ったときに、娘が持ち帰り用のチキンカレーを買ってきたことなのね。
「でぶでぶ膨らんだおかしなパン」というのは「ナン」ですね。ナンは「ナニー」つまりおばあちゃんの口語形でもある。
都甲 それで「おばあちゃんという名前のパン」だと思ったわけだ(笑)。
中村 そう(笑)。こういう掛け言葉をどう訳すかはいろいろだけれど、しつこく説明すると流れが消えちゃう、ここはおばあちゃんの反カレー主義の勢いが一番大切ね。カレーなんておかしな外国の食べものはこのおばあちゃんのお腹には合わない。たぶんレズビアンもお腹に合わない。
都甲 でも最後に彼女は孫のコールマンのことは完全に受けいれて、仲間になりますよね。このお祖母ちゃんにかぎらず、この作品は、この人はこう、あの人はこうと決めつけるところがなくて、どんどん流動していっちゃう。
中村 うん。目の前の娘が男装してるっていうのに、イーディスはそのことについてはちょっと後から考えるだけで、質問したりしない。どこかでわかっているってことなんだよね、きっと。つまり、お腹に合わなくてもいいってことなのよ。それはそれでいい、隣り合って存在していられれば。隣り合っているうちに、まああの人はああいう人だから、って当たり前になっていく。きっとアラブ人とユダヤ人が共存していた昔のパレスチナだってそんなだったのよ。ひとりひとりが暮らしの中で異なるものに慣れて共存していく術を学ぶ、そういう生活者の親和力って、上から降ってくる教条主義的イデオロギーよりも、じつはずっと幅広く柔軟で、ものすごく懐の大きいものでもありえるんだってことを、イーディスは思い出させてくれる。おばあちゃんの買い物かごのほうが、道徳の教科書よりずっと使える、国際会議場よりずっと便利にいろんなものが入るよ、ってかんじ。
1966年生まれ、札幌市出身。詩人、比較文学研究者、明治大学教授。著書に『降ります』『地上の飯』(ともに平凡社)、『日本語に生まれて』(岩波書店)、詩集『トカゲのラザロ』『天気予報』(ともに紫陽社)、訳書にアール・ラヴレイス『ドラゴンは踊れない』(みすず書房)、トレイシー・K・スミス『火星の生命』(平凡社)などがある。
都甲幸治(とこう・こうじ)
1969年福岡県生まれ。翻訳家、早稲田大学文学学術院教授。著書に『きっとあなたは、あの本が好き。』『読んで、訳して、語り合う。都甲幸治対談集』(ともに立東舎)、『21世紀の世界文学30冊を読む』(新潮社)、『狂喜の読み屋』(共和国)、訳書にジュノ・ディアス『オスカー・ワオの短く凄まじい人生』(共訳、新潮社)などがある。
平凡社ライブラリー編集長T
平凡社編集者。2014年より現職。『レズビアン短編小説集』『ゲイ短編小説集』『古典BL小説集』『クィア短編小説集』など、通称LGBT系ライブラリーを企画・編集。営業Sとともに平凡社ライブラリーのツイッターを担当。