原田宗典『おきざりにした悲しみは』刊行記念イベントレポート(紀伊國屋書店新宿本店)
2024年11月、紀伊國屋書店新宿本店にて、原田宗典『おきざりにした悲しみは』の刊行を記念するイベントが開催されました。当日おこなわれたトークショーの様子をお届けします。また、イベントで朗読されたエッセイ「美しいものを見た」を特別公開。本稿では、当日語られた同エッセイにまつわるエピソードも併せてご覧いただけます。どうぞご覧ください。
執筆は困難を伴う挑戦だった
どうもこんにちは。原田宗典でございます。こういう会を催すのは十数年ぶりになります。どうかあたたかく見守ってくださればと思います。
じゃあ最初に。10月の中頃かな、テレビを見てたらCMでキティちゃんが出てきて、こう言ってました。
「失敗は挑戦した証! ぜんぶ、わたしの宝物よ!」
キティちゃん、いいこと言いますよね。たぶんキティちゃんはゲーテの愛読者だと思います。失敗は挑戦した証、僕もそう思います、本当に。今回、この本を書くにあたっては毎日挑戦の連続でした。
書くきっかけからお話ししますと、昨年2023年の8月でしたかね。友人で『おきざりにした悲しみは』のカバーの絵を描いてくれた長岡毅という男と一緒に神保町のカラオケ館で歌を歌っていたら、彼が吉田拓郎の「おきざりにした悲しみは」を歌い出したんです。いい歌だなと思って、歌っている彼のこともすごくかっこよく見えたんですね。
そこでふと思い出したことがあり、「そういえば長岡、おまえが暮らしてるアパートの隣の隣の部屋に、母親と男の子と女の子の家族が引っ越して来たって言ってたけど、その家族はいまどんな感じなの?」って聞いたんです。すると、もう引っ越しちゃったよ、あのアパートにはいま俺ひとりしか住んでない、と。6部屋あるアパートなんですけど、そのアパートに住んでいるのは長岡ひとり。そっかと思って、その頃に報道されていた、ネグレクトっていうんですか、子どもをおきざりにしたり虐待したりというニュースを思い出したんですね。「おきざりにした悲しみは」という歌と、長岡の隣の隣の部屋に住んでいた親子連れ。その子どもたちがもしおきざりにされていたら、長岡はどうするかなと思って、物語を思いつきました。
2023年の8月から書き始めて、書き上げたのは翌年の4月ぐらいですかね。毎日挑戦するような気持ちで書いてきたんですけど、挑戦には困難がつきもの。というか、困難がなければ挑戦ではないと言っても過言ではないんじゃないでしょうか。僕にとって、書くうえでの困難が2つありました。
1つは歳をとったということですね。いま僕は65歳ですけど、昔、24歳のときかな、先輩に「原田、おまえ“人生時間”って考え方があるの知ってる?」って言われて、いや知らないな。何それ? って聞いたら「自分の歳を3で割るんだよ。その数字が人生時間。おまえいま24歳だろう。3で割ると8。8時だよね。8時っていうと、まだ仕事なんて始められないだろう。全然仕事になんないじゃん。27歳になったら9時。やっと仕事が始まるぐらいかな。30歳になると10時。まあ午前中の仕事がだんだんできてくる時間だよね。」と。なるほど。36歳になると12時、お昼休みですね。そういうふうにできてるみたいなんです。みなさんもご自分の年齢を3で割ったらいま何時にいるかってことがわかると思います。けっこう納得がいくんですよ。
じゃあ、僕の人生時間はいま何時でしょう。もうすぐ66歳だから、3で割ると22時、夜の10時ですよね。ちょっと残業し過ぎかな? という時間ですよね。その時間帯になって渾身の力を込めて仕事をするのはかなりの困難。もう仕事のつもりじゃなく書いていくしかないなと今は思っています。
もう1つの困難は目です。僕は中学生のころからかなり目が悪くて、近視で乱視だったんですね。20代の終わりごろには寝起きで寝ぼけていたせいもありますけど、スリッパだと思って猫を履きそうになったこともあります。まあそれぐらい目は悪かったわけです。50歳近くになってきたら今度は老眼が始まりました。老眼が始まるのと同時ぐらいに今度は緑内障になっていたようです。最初はわからなかったんです。気づかないままで症状が進行しちゃう方が多いらしいですね。近眼の方は緑内障になりやすいそうです。お気をつけください。治す手立てはないそうです。進行を抑制するしかないそうです。現状維持が精一杯。僕も最初は甘く見ていたから適当に目薬をさしてたんですけど、今は毎日一生懸命さしています。
気づいたきっかけは、息子とキャッチボールをしているときですね。受けようとしたボールがふっと消えたんです。すごい球を投げるなと思っていたら、球のせいじゃなくて、僕の目玉のせいだったんです。見えないことに気づいて、あぶないからちょっとやめようと。医者に行って視野検査を受けたところ、やっぱり見えない範囲がある。僕の場合は右目の中心部分の視野が少しずつ鱗が剥げ落ちるように見えなくなっています。画家のモネも緑内障だったそうです。「睡蓮」っていう絵がありますよね。ぼわあっとした、ああいう感じに見えにくくなっていくんですね。
緑内障で喜ばれることもあって、ご高齢の方にお会いしたときなんかですね。シワとかシミとか全然見えないです、ツルツルに見えます! って言うと、まあ嬉しい! と感激してくださるんです。こっちは見えないから困ってるんですけどね。
目が見えにくくなってから読書の量が減りましたね。活字だといつのまにか隣の行を読んでいたりしますし。すごく残念です。書く方も困難を感じます。自分で大きく手書きした字でも見えないんです。よく見えるのは朝の時間帯。7時半に起きてごはんを食べて、8時に机に向かって11時くらいまでの3~4時間ぐらいですかね。それを過ぎると疲れてしまって、よく見えない。スポーツ観戦なんて、野球のボールも、サッカーのボールも、ましてやゴルフボールなんか全然見えないから、あんまりしなくなりました。やっぱり相撲ですね。相撲はわかりやすい。相撲文字っていう、ぶっとい字で書いてるのがあるでしょう。あれなら見える。あるとき、テレビで観戦してたら「褌(ふんどし)」って四股名があったんですよ。そんな四股名の力士がいるのか? と思ってよく見たら「輝(かがやき)」でした。
僕は書くときにアナログとデジタルの両方を使います。書き始めは四百字詰めの原稿用紙に、筆ペンで大きな字で書いていく。『おきざりにした悲しみは』の場合は2章目の途中、50枚目ぐらいまでは手で書いていました。そうするとだんだんリズムが出来てくるんです。文体っていうのはリズムだと思うんですよね。僕は手書きのリズムに慣れているので最初は手で書く。手で書いて、そのリズムが体に染みついてきたなと思ったら、パソコンを開いて文書ソフトを立ち上げて、手書きで書いた原稿を写して、それからはパソコンで書いていきます。けれどやっぱり目が見えないもんで、棟方志功のように顔を画面に近づけながら書くことになります。疲れます。
「美しいものを見た」
さて、今日朗読をするのは「美しいものを見た」という短い文章です。1998年の長野パラリンピックのことなんですけど、その前の年、97年に美しくないものを見たんです。そのときの話をしてから、朗読をしたいと思います。
97年の7月に、世界各地の紛争地や紛争直後の場所、難民キャンプで、ボランティアに参加してる日本の若者たちを取材する「僕たちの戦争と平和」という番組を終戦記念に作りたいというオファーをNHKから受けました。どうして僕なんだろうと思いましたけど、その頃は「やったことないことはやる」っていうのがモットーでしたので、やります! と決めて、死ぬつもりで出かけました。21日間ぐらいの旅でした。
まずアフリカのエリトリアという小さな独立国に渡って、そこからジュネーブのUNHCRというところに行って、緒方貞子さんという方にインタビューをする。そこからユーゴスラビアに行って、現在はセルビアの首都であるベオグラードを拠点に、難民キャンプや「キャンプ貞子」というプロジェクトに参加している日本人の青年を訪ねる。そこまでがアフリカ・ヨーロッパ編。そこから今度はタイに行ってバンコクを拠点に、その頃に内紛があったカンボジアに行って、地雷除去の仕事をしている親子を訪ねる。それから、タイとミャンマーの国境近くに、少数民族のカレン族が閉じ込められているメラーキャンプという難民キャンプを訪れ、そこで働いている看護師の女性を取材する。その後はラオスとタイの国境のところに住んでいる元傭兵──まあ雇われて戦争する人ですね──の青年を訪ねる。そんな仕事でした。
最初に訪れたエリトリアは、地図ではエチオピアの北に位置する、紅海沿いの小さい国です。アフリカだから暑いだろうと思っていたら、訪れた首都のアスマラは2000メートルを超える高地にあって、寒いんですね。行動しているとすぐに息切れして、高山病みたいになってしまいます。何にもわかんないままそこに行ったんですけど、すごいところでした。エリトリアは30年間エチオピアと戦ってきて、4年前(93年)に独立を勝ち得たという国で、30年間も戦争をすると、土地はこんなふうになるのかと思い知らされました。
滞在したアスマラは小さい町で、町の外に一歩出ると草も木もなんにも生えていない、石と砂と泥しかない平原がずーっと続いている。エリトリアでは、少しでも緑を取り戻すため国家を挙げて国民全員で一生懸命に植林活動をしていて、ロケバスに乗ってその植林活動の現場を見つけて取材する段取りだったんですけど、行けども行けども見つからないんです。そのうちに高山病の症状が出てくるんですね。頭痛い! ってなっていると、少し先の小高い丘に古民家みたいな建物が建っていて、あそこで休憩しましょうという流れになりました。
ロケバスはその丘を登って建物の前に停まりました。すると登ってきた坂道の下から、羊たちがメェーメェー鳴きながら、何百頭と駆けてくるんです。その真ん中に、先がくるくると丸まった杖を持った白い髭の神様みたいなおじいさんがいて、うわ神様みたいと思っていたところで、ふっとおじいさんの後ろに目をやると、向こうに紅色の海、紅海が見えるんですよ。出エジプト記でモーゼの前で海が割れる話がありますよね。あの海は紅海なんです。紅海を背にして、おじいさんと羊たちの光景を見て、すごいところに来てしまったと思った記憶があります。
調べてみると、エリトリアはその後にひどい独裁者が現れて、いまは「世界の自由度」ランキングで北朝鮮と同じくらい下位らしく、自由なんてない国になってしまっています。僕が行ったときはかろうじて外国人を受け入れられる状態でしたけど、もう入れないと思います。そこに4日間ぐらい滞在したのかな。
その後、飛行機に乗ってミラノに飛んで、ミラノからジュネーブに行って緒方貞子さんという方にインタビューをしました。印象に残っているのは、いま日本の青年たちに足りないものって何でしょうと緒方さんに質問したところ「それは好奇心ですね」とすぐに答えられたことです。好奇心が足りないと。それを聞いて、マザー・テレサが「愛の反対は憎しみではなく無関心」と言っていたのを思い出しました。愛の反対は憎しみじゃない。愛の反対は無関心なんです。関心を持つことが愛なんです。それと繋がるような意味で緒方さんは、みんなに足りないのは好奇心だ。もっと関心を持たなきゃダメだ。無関心でいてはいけない、と言ったんだと思います。
ジュネーブから今度はベオグラードに行きました。ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争が勃発してから4、5年後だったと思いますけど、町中には色濃く戦争の気配が残っていて、堪らない感じでした。パンチェロという小さな町で昼食をとったあとに、その辺を散歩していたら、町の真ん中のシンボルみたいな広場に時計台が立っているのを見つけたんです。その時計はめちゃくちゃな時刻を指していました。お昼すぎだったんですけど、時計の針は6時だか7時を指していて、めちゃくちゃな時間にガラン! ガラン! ガラン! と鐘が鳴るんです。日本だったらいの一番に誰かが時計を直すと思うんですけど、そんなことをしている暇はない。自分たちは生きていくためにもっとほかにやることがあるんだと。だから放ったらかしにしてるんですよ。
すごく象徴的でした。時計台と、狂った時間に鳴る鐘。それが戦争なんだなと思いましたね。その後はパリチという名前の小さな町へ向かいました。 そこで緒方貞子さんの「キャンプ貞子」というプロジェクトが行われていました。キャンプ貞子は難民の人たちをどうケアしたらいいかを教える教育プログラムで、世界中のいろんな国から若い人たちが集まっていて、参加している日本人の青年を訪ねる予定でした。
彼は語学の天才で、年齢は24歳ぐらいでしたかね。いったんは大学を出て外国企業の人事課か何かに勤めてたんだけど、ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争の様子をニュースで見て、居ても立っても居られなくなったんだそうです。子どもが泣いている、怪我をしている映像を見て、自分はこんなことしてていいのか? だけど自分が行っても何もしてやれない。じゃあどうすればいい? 医師免許を取ろう! と思ってすぐに勤めていた会社を辞めたそうです。
彼は、会社を辞めてからの半年間で猛勉強して大学の医学部に入ったそうです。取材で訪れた時は大学の夏休みで、その時間を利用してキャンプ貞子に参加していました。彼は数えられないぐらいの国の言語を喋れるんですけど、セルビア語とユーゴスラビア語とスラブ語かな? 日本からユーゴスラビアに来る飛行機の中でちょっと勉強しただけで、もう話せるようになっている。天才ですね。
なぜそんなに語学に精通しているのかというと、彼の夢はネゴシエーター(交渉人)なんだそうです。どっかの国とどっかの国が戦争を始めたら、中に入って「待て」と言える。そういう人になりたいと。そのためにはどっちの言葉も喋れないとダメでしょう。だから、世界中のありとあらゆる言葉を話せるようになりたいんです。そういうやつでした。その心意気やよし、こいつならやってくれるんじゃないかと思わせられる、すごい青年でした。
会話している様子を撮影しているときに、彼が突然カメラに向かって「ちょっと待ってください。」と言ったんです。
「来年、長野のパラリンピックがあります。だけど通訳が足りません。オリンピックの方にはいっぱい通訳がいるんですけど、パラリンピックの通訳が足りないんです。ぜひ、特にドイツ語ができる通訳を募集してます。お願いします。」
僕はちょっとびっくりしちゃって。そうなのか、みんなオリンピックには興味があるけど、パラリンピックには興味ないんだね。じゃあ俺行くよ、と彼に取材に行く約束をしたんです。僕は本気でした。
翌年の98年、3月になってパラリンピックを取材しに行こうと、出版社経由でプレスカードを手に入れるため事務局に掛け合いに行ったら窓口の人が、これまで新聞社以外の雑誌社とかテレビとかのマスコミでプレスカードを発行してくれと言ってきたところはひとつもありません、と。そうか、じゃあ俺が行かなきゃなと余計に思いました。みんな関心がなかったんですね。
プレスカードを入手した僕は、パラリンピックの会場へ向かいました。そこで美しいものを見ました。
おしゃべりは以上です。今度は朗読です。 先ほども申し上げましたが目が見えないので、何べんも練習したんですけど、やっぱり失敗しますね。うまくできるかな。一生懸命やりますんで聞いてください。
~朗読「美しいものを見た」(お読みいただけます)~
ありがとうございました。もうひとこと。「美」という漢字は「羊が大きい」と書きますね。調べてみると、やっぱり大きな羊のことだそうです。「美しい」というのは見てくれのことじゃないんですね。大きい羊はみんなで分かち合える。みんなで分かち合って食べる。それを指して美しいと、昔の中国人は感じたんだと思います。
今回の『おきざりにした悲しみは』は美しい小説だと思います。あなたには見えないかもしれないけれど、きっと見えないところで誰かが手を振っています。そのことを忘れないでください。きっとそのことを思い出せるような小説に仕上がっていると思います。ご清聴、ありがとうございました。
原田宗典(はらだ・むねのり)
1959年生まれ。早稲田大学第一文学部卒業。1984年に「おまえと暮らせない」ですばる文学賞佳作。主な著書に『スメル男』(講談社文庫)、『醜い花』(奥山民枝 絵、岩波書店、2008年)、『やや黄色い熱をおびた旅人』(岩波書店、2018年)、『乄太よ』(新潮社、2018年)、『メメント・モリ』(岩波現代文庫)、訳書にアルフレッド・テニスン『イノック・アーデン』(岩波書店、2006年)がある。
おきざりにした悲しみは
原田宗典
2024年11月8日発売
定価=本体2,000円+税
四六判・上製・272頁
ISBN 978-4-00-061665-2
(試し読み)