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『本当のことを言おうか 谷川俊太郎 精選対話』特別公開

歌の喪失・根の喪失 ──同時代の中でいかに歌うか (小室等と)‥‥‥1980年10月・48歳

 谷川俊太郎さんが、詩について、歌について、朗読について、絵本について、翻訳についてどう考えたか。谷川さんがもっとも精力的に活動していた時期の対談から約20本を精選した、『本当のことを言おうか 谷川俊太郎 精選対話』(全3冊)。
 本記事では、第2巻に収録している作曲家・小室等さんとの対談を抜粋して特別公開いたします。

 


 

こむろ・ひとし
1943年東京生まれ。作曲家、フォークシンガー。多摩美術大学卒業。 1968年グループ「六文銭」を結成。1971年第二回世界歌謡祭にて、上條恒彦+六文銭による「たびだちの歌」でグランプリを獲得。1975年、泉谷しげる、井上陽水、吉田拓郎と「フォーライフレコード」を設立。現在は自身のライブ活動を中心に「Lagniappe」や「六文銭」などユニットでの活動の他、イベントプロデュース、テレビドラマ・映画などの音楽制作、ドキュメンタリー作品のナレーション、連載コラムの執筆などその活動は多岐にわたる。谷川俊太郎とのコラボレーションアルバムは「いま生きているということ」(1976)、「父の歌」(1977)、「プロテストソング」(1978)と、「プロテストソング2」(2017) をリリース。書籍には『プロテストソング』(詩と楽譜と谷川俊太郎・小室等による対談を掲載、2018)がある。

詞と詩の分離

“根”をどこに求めるか

言葉の生きた現場

時代を病む

詞と詩の分離

 谷川 いまの世の中で自分を歌手だと思ってる? 作曲家だと思ってる?

 小室 そこなんですよね。周期的にね、歌手だと思っている時期が過ぎると作曲家だと思いますよ(笑)。

 谷川 歌を作っている人間であることは確かなわけでしょ。

 小室 そうです。

 谷川 歌を作ることには未来はあるんですか? 詩を作ることには未来はあるのかとよく考えるとね――まあ「未来はあるのか」はオーバーなんだけどさ、じゃあいまの世の中で詩を作っている人間というのは、一体どういう存在価値があるのかなあみたいなこと、そしてもし役割を持てるとしたらどんな役割を果たせるのかしらと考えたりすることがあるんですけどね。

 小室 役割って言うとちょっと分かんないんですけど、もうちょっとみんなが楽しめる歌はもっと出来てくるだろうと思います。それはぼくが作るかどうかは別として。

 谷川 じゃあ、いま日本にある歌は、みんな楽しんでないと思ってるわけ?

 小室 うーん。ニューミュージック、あるいは歌謡曲ということで言えば、歌を楽しんでいるというよりは――相当の人が歌を楽しんでいるんだろうけど、同時にキャラクターであったり現象であったり、テレビで見える姿であったり、そういうことで楽しんでいるんだろうと思うんですよね。だから歌だけを持って帰ってきて、友だち同士で歌い合って楽しむとかいうようなことはちょっとないんじゃないかと思ってます。そのシンガーが歌っている時に唱和するという楽しみはあるだろうけど……。

 谷川 すると、カラオケ・ブームというのはどういうことになってるんだろう。

 小室 カラオケは自分がシンガーになってしまってる楽しみだと思いますね。

 谷川 テレビに登場している錯覚に捉えられるわけね。

 小室 うちでカラオケで一人で楽しんでいるような特殊な人もいると思いますけどね、それだって、そういうステージに立っている自分を想像して歌っているんだろうし、カラオケ・バーに行ったって、お客がいない時にはなかなか歌わないんじゃないかと思いますね。

 谷川 詩と違って歌というのは相当な巨大産業になったでしょ。そういうところが「詞」と「詩」の一番大きな違いだと思ってるんですよね、その面で問題にするとすれば。だから作家というのは家が建つけど、詩人は「家」がないから家が建たないと言われているわけですよね(笑)。画家も作家も家が建つと、だけど詩人、俳人、歌人は家が建たないと、こういうふうになるわけですけどね(笑)。

 そういうふうに、なんて言うのかな、歌に求めるものも詩に求めるものも共通なものはあるんだよね。だけど歌の方の産業はかくまで巨大になって――ということはかくまで需要が大きくてね、詩の方はかくまで需要が少ないというのは非常に面白いと思うんですよね。それは何の力かと言うと、結局音楽の力だというふうに、引き算すればなっちゃうでしょ。だから音楽の方が人間にとってより根源的なものを持っている。詩というものが韻文であってもっと肉体に結びついていた時には、こんな分離というのはなかったと思うんですよね。音楽に結びついた“詞”が力を持てば持つほど“詩”の方は非韻文的になっていって、音楽性を失い、肉体性を失うというふうになっていくと思うんですよね。

 小室 歌の方で言えば音を愛好されてるという感じはありますよね。だけど歌が愛好されてるとは思わないですね。

 谷川 その「愛好されてる」という感じで言えば、たとえば、いまの中年が「兎追いしかの山」を歌うとか、もうちょっと上の連中が軍歌を歌うとかという方が、愛好のされ方としては本物に近い感じがするわけね。

 小室 そして今の歌についてはどうなのかというと、それは茶の間にいて、つまんなかろうがどうだろうが日がな一日テレビを見続けてしまうことで充足した気になってしまうのじゃないでしょうかね。で、実際レコードの売り上げ自体もひと頃から比べるとどんどん下がってきているわけですよね。だから、歌を買いに行こうということも落ちてきているわけですよ。

 谷川 それはだけど、カセットの普及ということも大きく影響してるんじゃないの。エア・チェックってことが。

 小室 ははあ。

 谷川 だからカセット業界に著作権使用料を分担させようという動きも出てきてるわけでさ。この前も信濃大町に行く途中で、ちょうど連休だったものだから回りに高校生だかOLだか分かんない女の子がいたんだけど、松本に着くまでのあいだ、カセットで繰り返し繰り返し三人のグループが同じ歌を練習してましたよ。汽車の中で覚えちゃうという感じなのね。あれはレコードじゃできないことなんだから、要するにエア・チェックしてきたテープだと思うんですけどね。ただ、そういうのはなんて言えばいいのかな、たとえば昔の民謡だったら、それこそ何百年も続いてきててさ、それを子どもの頃覚えたら死ぬまでそれを歌ってるわけでしょ。しかもそれを歌う機会というのは節目としてあってね、そういう時に会った人間に自分の声を自慢したりして歌ってたわけなんだけど、いまの歌というのは、そういう形で一生涯持ち続けるものが少なくなっていることは確かだと思うのね。それを、歌っていうのはそういうものじゃないという連中もいるわけで、歌手が楽譜を読めんのはけしからんとかいまの歌手はなっていないとかね。あれは本当に社会に害毒流してると思うんだけどね(笑)。ああいう人がいる限りは日本の歌はいつまで経っても自由になれないって言うかさ、まあそこまで力は持っていないと思うけど。だけどそういうふうに一生涯持ち続けるのが歌かっていうと、ぼくは必ずしもそうは思わない。つまり洋服がここまで着古しては捨て、新しいファッションになるんだったら歌だってそうなってしようがないんじゃないかという気がしますね。文学の世界だってそういうところがあるんだもの。だから、そういうものに果たして人間が耐えられるのか、あるいはそういうことを人間がどういう方向に持っていくのかはまた別問題だけども。そういう事実はあるわけだしね。

 小室 ぼくは、「詞」か「詩」かなんてことはどうでもいいという気はするんですよね。ただもうちょっとぼく自身が面白がりたい、面白がれるものがもっと沢山あると楽しいな。

 谷川 ぼくはなにか、面白いものを探す暇がないって気がするのね。探せば面白いものはいっぱいあるんじゃないかという気があるんだけど、それを調査する暇がないと言えばいいのか。たとえば、何チャンネルの土曜日何時からの番組が絶対面白いとかいう情報を得るとするじゃない。その日その時間にうちにいればいいんだけどさ。なかなかいられないよね。いたって忘れちゃったりして。そういうことがとっても多い気がするね。だから歌だってさ、いま流通している歌全部聞けば、もしかするとものすごい傑作がいくつかあるんじゃないかという不安感がありますよね。そうでもないか?

 小室 そうでもないと思いますね。

 谷川 小室さんは相当聞いているわけだしね。

 小室 仕事柄、ほとんど聞いていますよね。あれだけの数がある中で考えると、ちょっと少なすぎるという気がしますね。結局、歌を作る作業が、プロの二軍ですからそういう人たちのいま売れているものを対象にしてしか行動をしてないわけですよ。だからさっき谷川さんが言ったようにもっともっと多様化してきて、いろんなものが出てきてそれをみんながチョイスしていくっていう状態になれば物事はずいぶん変わっていくと思うんですけどね。ぼくらが始めた頃は面白いから始めたわけでしょ。いま音楽を始める人はみんな、いつか吉田拓郎になろう、松任谷由実になりたいということで音楽をやっているんですよ。もちろんそれでもいいんでしょうけど……。ところが、いまやアマチュアにとって目標となってしまった陽水なんかは自分が何やっていいか分かんなくなっちゃってるんですよ、いま。

 谷川 でも何やっていいか分かんなくなるというのはまだ救いがあるよね。昔やったことを繰り返してなんら疑問を感じないというのよりはいいよね。

“根”をどこに求めるか

 小室 こうやって話していると、谷川さんはそんなに聞いてないのかもしれないけど、谷川さんの耳にはいって「これはね」というのがアンテナにかからないんですよね。ニューミュージックの中で。

 谷川 そのとき聞いて感激してもすぐ忘れちゃうんだよね。いま、そういう世の中のような気がするんですよね。

 小室 ぼくの場合にはほとんど聞いているわけですけど、「いや、谷川さん、これがね」というふうに話ができるものがやっぱり無い。

 谷川 たとえば、矢野顕子のニュー・アルバムを聞けばさ、いいなと思う歌がいくつかあるよね。中島みゆきを聞けば、やっぱりいいなと思う。だけど、毎日繰り返してそれを聞くかというとそうではないんですよね。

 小室 そうやって挙げてゆけば、矢野顕子のニュー・アルバムの中で結構面白いのがあったり、中島みゆきの音と言葉の関係ではずいぶん新しいことを彼女はやっているし、三上寛の現代詩とも何ともつかないようなものをフーッと一気に歌い上げてしまう中に面白さがあるし、友部正人の現代詩ふうなものを淡々と歌ってみることの面白さもちょっとあるし、それからサザンオールスターズの支離滅裂な部分がかなり面白かったりするし、あと売れている人の中に一曲ぐらい面白いのがあるなと思うけど、やっぱりその程度ですよね。

 谷川 だいたいその程度のものなんじゃないのかしらね。

 小室 たかが歌ですからね。

 谷川 それとももっと、たとえば「マタイ受難曲」に匹敵するようなものが出てくる可能性はあるのかね。

 小室  「マタイ受難曲」に匹敵するかどうかは分からないし、「マタイ受難曲」がどれほど素敵なものかぼくは分かりませんけれども、LP聞いてその中に一曲いいものがあればこれは儲け物だという言い方が一方であるんですけどね。ぼくは同時に、その一方で、聞いてその八十パーセントくらい好きになってしまえるLPがあってもいいと思うんですけど。

 谷川 相当な欲張りだなあ。

 小室 ニューミュージックというジャンルがもしあるんだったら、一枚ぐらいLP全部聞けるというのがあっていいんじゃないかと思うんですよ。それはすべての人にとってそうじゃなくてもいいんです、でもぼくにはぼくのという意味で一枚ぐらいは全部聞けるというのがね。

 谷川 ぼくはベートーヴェンすら一楽章だけしか聞かなかったりするんだからな。

 小室 本当に音楽のファンじゃないのかもしれませんね(笑)。

 谷川 必要だから聞いてるんでさ、尊敬してないんだな、きっと(笑)。でも、小室さんにはまだ、ありうべき歌の理想があるんだな。もっといい歌があるはずだ、もっと面白い歌があるはずだという理想が。

 小室 ええ、持ってますね。

 谷川 それは素晴らしいんじゃないかな。だから歌が次々に出てきて、次々に消費されてという形じゃない歌の在り方があるはずだと思ってるわけだ。

 小室 もうちょっと長持ちする在り方はあると思ってますね。

 谷川 詩ではどうですか。そういう詩ありますか?小室さんわりと現代詩読んでるでしょ。

 小室 そうですね。歌の場合でも長持ちするというのは、かつて聞いたものがずっと長持ちしてるわけでしょ。それは時間が経つごとにどんどんノスタルジックなものになってゆくわけでしょ。すると、ノスタルジーとして楽しんでるかもしれないわけで、いま本当に同時代的に生きるかは分からないところがあるわけですよね。

 谷川 それは本当にそうね。だから小学唱歌が本当の歌かどうか疑うところがあるわけよね。

 小室 だからそういう意味で言うとちょっと言えなくなってくるんですけど、詩としては、ぼくの中で現代詩に出会ったなという感じがあるのは、吉岡実さんに谷川さんなわけですよ。吉岡さんと谷川さんのものはいまだにいいなと思うし、新しいのが出れば躊躇せずに求めますね。

 谷川 歌い手ではどうなんですか。外国・日本を問わず。新しいのが出たら絶対買っちゃうという。ボブ・ディランはそうだったわけ?

 小室 ボブ・ディランはこのあいだまでそうでした。ただ宗教に行っちゃったんで、ちょっと届かなくなった。本当のファンだったらそこまでも行っちゃうのかもしれないですけど。

 谷川 やっぱりクラシックの音楽というのはいくら昔聞いたものでも懐しのメロディーにはならない気がするのね。それがクラシックと言うのもおかしな話なんだけど、たとえばベートーヴェンというのはぼくは十代の頃から聞いているわけでしょ。それでいま「第五」を聞くとするわね、聞いて「懐しいな」とはちょっと思わないね。つまり、現在ただいまで聞いているよね。「マタイ受難曲」というのもそうですけどね。だから、どうして小学唱歌みたいなものが懐しいメロディーになっちゃうのかね。そうするとやっぱり音楽の質の違いかなという気になっちゃうけどね。本当は音楽というのは常に現在ただいまで聞いているはずのものなんだよね。

 小室 その現在ただいまという意味でぼくがずーっと聞くのはフォークソングなんですよ。

 谷川 本当のフォークソング?

 小室 それはもちろんソフィストケートは多少されているんだけども、下地は確実にフォークソングである。新たに作られたものではなくて……。トラディショナルなんですよね。

 谷川 アメリカのフォークソング?

 小室 ええ。そういう意味ではディランも、その音の作られ方というのはほとんどフォークソングですからね。

 谷川 歌というのは、クラシックのリードなんかは外国の言葉だから、意味合いとしては分かっていても、音楽と結びついてないから感じられないということがあると思うんだけども、歌はそういう言葉があるから懐しのメロディーになりえるんだね。だから言葉が時間性みたいなものに行っちゃうんじゃないかな。

 小室 ただ、いまこんなことを言っても始まらないんですけども、向こうのものは即、民謡なんかに帰ることが出来るでしょ、根っ子の方へ、それがちょっと日本では出来にくくなっている。その出来にくくなっていることを面白がるということは出来るんだけども、帰ることがなかなか出来にくい。

 谷川 それは、つまりフォークとかそういうものが?

 小室 つまり、ポップスであれ歌謡曲であれ……。

 谷川 歌謡曲は全部帰れるんじゃないの。歌謡曲、演歌というのは民謡に帰れると信じこんでいるけどね。帰れないかな……。

 小室 帰れないと思いますね。

 谷川 そうか、民謡自体がもう死につつあるから……。

 小室 そういうことですね。そういう意味では言葉はどうですか。

 谷川 言葉はやっぱり相当はっきり断絶しているところがありますよね。それがどの辺かは簡単に言えないけど、たとえば、われわれが文語体というものを、教科書で習うようになった時にはもうすでにそれは絶ち切れつつあると。それから、たとえば四書五経の素読なんてのをしない世代というのは、やはり漢文脈からは切り離されているだろうし。だからやはり明治以後だろうと思うけど、日本語は相当激しく変化してますよね。

 小室 ぼくの娘は九歳でしょ、その九歳になるあいだに周期的に二、三回ぐらいワッとエネルギッシュにぼくに話しかけてくる瞬間があったんですよ。その瞬間というのは彼女の語り口が変わったときなんですよ。それでつい最近あったことなんですが、その時にぼくは「ちょっとやめなさい」という気になったんです、娘のしゃべり方に。新しいしゃべり方を覚え始めた時で、それが非常にコピーで、その結果がぼくに「あのさあ、それでさあ、だからさあ、そうなのよね」という感じで出てきてもう娘自身がそこにいないという感じがしてすごくイヤだったんです。でも、それをもう一つ冷静になって観察してみると、それはぼくがしゃべってるしゃべり方なんですね。

 谷川 ああ、そうか。

 小室 ぼくはそんなしゃべり方してるつもりはなかったんだけども――もちろんそれはぼくからというより世の中からコピーしたんだろうけども、ぼくもそういうしゃべり方を友だちとしていたんだろうと思って、愕然としたんですけどね。だからその時思ったのは、これは嫌悪するよりは、これから更にどんどん変化していくだろうし、そこから面白いのが生まれると楽しいなぐらいに自分の気持ちを落ち着けたんですけどね。相当イヤなしゃべり方でしたね。

 谷川 だから、ぼくが「言葉というのは保守的になる」というのはそういう意味なんですよね。それで保守的なものに価値を認めるということになっちゃうのね。それがどうしてかよく分からないんだけど、言葉がライフ・スタイルそのものを決定しているところがあるからそうなるんだろうと思うんですけどね。ぼくみたいな物書きは、一種のサンプルとして言葉を見る面があるから、一切の価値規準なしでさ。だからいろんなスタイルがあることは非常に面白いから、それが自分にとって感覚的にイヤだと思っても、それを受け入れちゃうところがあるし、逆に書きものの中にそれをコピーすることだってあるわけだからね、ちょっと普通の人とは見方が違ってきちゃうかもしれないけどね。だけど自分の書くものの根っ子がどこにあるのかというのは一番基本的な問題で、それは、たとえば江戸末期の町人たちがしゃべっていた言葉とわれわれの口語体とはほとんど断絶している。一人称を使わなくてもしゃべれるとかそういう基本的な構造は変化していないんだけど、やはり、翻訳しなきゃ樋口一葉も読めないくらいに日本語そのものが変化しているところはあるわけでしょ。そういう変化の溝みたいなものをどうブリッジしていくかということは相当意識してんじゃないのかな。それがたとえば大岡信みたいに古文、短歌、俳句、そういうものを自分の詩にも取り入れるし、そういうところに日本の詩の成立を考えることから現代詩を振り返るというやり方も当然あるわけだしね。ぼくなんかそれがもうちょっと土俗的なわらべうたみたいなところに行ってるわけです。そういうものに足がかりをつかんでブリッジしてみたいみたいな……。

 小室 こういうことはあるんでしょうかね、「詞」か「詩」かなんてどうでもいいと言ったんですけども、多少理屈をつけて言えば、「詞」の方はつけいる隙がある、音として。ところが「詩」の方はどれ読んでても、新たに旋律をつけることを拒否してると思うんです。それは作る人がもうすでに作ってるんですよね、言葉の中にリズムやメロディーを。だからぼくは「詩」の方の詩人が自身で作曲したらどんなに面白いだろうかと思うんですよ。

 谷川 それはぼくは見方がちょっと違っていてね。いまハイドンのオラトリオ「四季」の「夏」の出だしの部分にある本当に短いフレーズばかりを繰り返し聞いてるんですよ。なぜそこを聞くかと言うと、そのフレーズを聞くと、簡単に言うと極度にロマンチックな感情を喚起されるのね。それはものすごくまだるっこしい、苛々する感情なんですよ。というのはその音楽を聞くことによって、イメージみたいなもの、自分がふだん絶対想い浮かべられないような、ある形のない存在が心の中に湧いてくるからなのね。その音楽を聞く時だけそれは湧いてきて、その短いフレーズを聞いているうちにそれが摑めそうに思うんだけど、絶対摑めないんですよ、何度聞いても。で、それを聞くたびに印象は薄れてっちゃうという、非常に苛々させる体験なんだけど、つまり本当に成功した「詩」の中には、その音楽の持っているのと似たようなキャラクターがあるという気がする。そこに書いてある言葉は全部、ある程度分かっていて、事実どういうことが書いてありどういう意味かは全部分かっている。だけど絶対摑みにくい何かがそれを読むと感じられる、それがあるのが「詩」だと思うのね。もちろんそれは詩人が書くから常にそういう詩が書けるわけじゃなくて、そういう、詩のもっとも詩らしい性質に到達できている詩は非常に少ないんじゃないかと思ってるんだけども、行と行の間が眼に見えない物質みたいなもの、そういうエネルギーで充塡されているから、音楽がつけいる隙がないんだとぼくは思うわけね。これは言葉のメロディーとかリズムとはちょっと違うんじゃないかと思う。もし「詞」が「詩」の方と違うんだとしたら、「詞」の方は音楽を得ることで「詩」と同じようなキャラクターを獲得できるぐらいに、言ってみれば謙虚な、間が抜けてる言葉であると言えるかもしれない。でもそれも、じつは境界線はゴチャゴチャで、たとえばわらべうたの言葉がありますよね。これはいま、北原白秋なんかが集めて、印刷されて本になってますよね。だからパッと見た時にはどうしても「詩」の方で見ることになりますよね、こっちの意識としては。だけどあれは全部「詞」の方のはずなんです。

言葉の生きた現場

 小室 それでもう一つお聞きしたかったのは、谷川さんがわらべうたの方に行ってるというのは、詩を作るという行為よりもより強く歌を作ろう、作曲しようという願望がそうさせているのかな、と。

 谷川 うーん。それはそうじゃないんだな。だってわらべうたのメロディーなんてそれこそさ、「〽かごめかごめ」みたいにきまってるわけじゃない。そういう音的なクオリティにはわらべうた書く場合にはそんなに重きを置いていないわけ。

 小室 でも書いている最中から、そういう「〽かごめかごめ」みたいな旋律ばかり与えられるわけじゃないですか。

 谷川 意識すれば与えることはできるよ。だいたいこれはわらべうたの旋律で歌うことは出来るなと考えることはありますよ。だけど、本来言いたいのは、たとえば『マザー・グース』の翻訳もそうなんですよ、あれをみんな「詩」として読んでいるわけね。印刷媒体にああいう形で発表されたから。だけどじつは、「詩」ではなくて、体の動きとか音声とか、呼吸、息、抑揚であるとか全部含みこんだ現場で生きて使われる言葉だったわけですよ。それを仮に印刷の文字で記録したにすぎないものだったわけでしょ。わらべうたも本来そういうものだと思うんですよね。そういうふうに「詩」というのは、生きた現場の、音楽とも詩とも何ともつかないような、あるいは遊びともつかないようなものから抽出されてきたものだったわけでしょ。それをもういっぺん、「詩」から遡って、言葉が実際の人間の生活の中で生きた現場みたいなものを探そうという意識の方がぼくは強いですよね。もしかしたら「詞」の方は、そういうふうに印刷された文字面では絶対受け取ることのできない、つまり、歌われる現場、歌う現場、ひとびとが歌い合う現場みたいなものと切り離せない言語なんじゃないかなということですよね。それを印刷メディアの上で比較しても無意味であってさ、それが実際に歌として成立してる現場で考えていかないと駄目だと思うのね。

 小室 ぼくは「詩」の方の詩人に強迫観念があってそう思うのかもしれないけど、「詞」の方の人と付き合うでしょ。そうすると詞を持ってくるでしょ、どうもなんとなくどんな歌にしてほしいかというのがあるらしいんですよ。そりゃそうですよね、当然のことながら。だけど、それはかなり出来上がった歌としてあるんです。言葉一つ一つに対してじゃなくて、この詞はこんな感じの曲がいいんだというのがあるみたいなんです。ところが「詩」の方の人と付き合うとあんまり言ってくれないんです。どうもね、強迫観念なのかもしれないんだけど、その一つ一つの言葉にメロディーがすでにあるみたいに思うんですよね。

 谷川 そんなに「詩」の詩人と作詞家とが違うことはないと思うね。

 小室 でもやっぱりあると思うな。この言葉はメロディーや旋律が上がってはいけないとかっていうことがあるような気がするんです。

 谷川 ドイツなんかには詩人でギター弾き語りでやる人がいるでしょ。アメリカにもそれに似たのがいるけど、日本ではみんなあまりやらないよね。

 小室 だからそういうのやってみると面白いなあと思うんですけどね。アメリカなんかでもレナード・コーエンとかね。それをやる人が「詩」の方に出てこないというのもとても面白い現象ですね。つまり、月並みな言い方をすれば、音楽に対するコンプレックスというのがあるでしょ。「俺、音楽駄目だからさ」というの。ぼくはそれかなり大きいと思ってるんですけどね。

 谷川 われわれ「詩」の方の詩人は、日本語に本当に合う音の組織が分からないと思ってるんです。つまりアングロ・サクソン系のメロディーがそのまま日本語にくっつくなんて楽観的なことは考えてないと思うよ、簡単に言えば。かといって義太夫でうなるわけにもいかない、詩吟やるわけにもいかない。そこのところは自分で工夫するだけの熱意がないけども、とにかくギター弾いて向こうのフォークソングのメロディーに俺の詩をのせて歌うなんてテレくさくて出来ねえやっていう意識が一番強いんじゃないかな。

 小室 音楽を差別してるってことはないですかね、一段低いものとして。

 谷川 そんなことはないですね。そりゃ、だってスターになれば金が儲かるんだもの(笑)。

時代を病む

 小室 これはいつかも言ったことがあるんだけれども、富岡多惠子さんがせっかく歌手としてレコード出したでしょ、その時の作業が本当に残念でしようがない。

 谷川 彼女は、歌を歌える人じゃないんだよ(笑)。歌を歌うほど明るい人じゃないね。あれはタモリ流に言えば根が暗い人ですよ。

 小室 暗い人なんでしょうね、これはうかつに言っちゃいけないけど(笑)。ただ、面白がってやってたのかどうか知らないけど、一方には歌謡曲評論家としての富岡多惠子さんもいるわけじゃないですか。だとすれば、出てきた富岡さんの詩が現代詩だったというのは、ぼくは絶対に納得がいかないんです。

 谷川 それは、そういうふうに分裂してるから現代詩人なんですよ。そりゃ、批評は出来るんですよ、だけど自分じゃ書けないんですよ。だから彼女はさ、他人の演歌を歌えばよかったのよ。坂本龍一なんかを使うからああいう前衛的なものになっちゃった(笑)。

 小室 現代詩やってる人がニューミュージックについて何か言うのがあるでしょ、あれはなにか一つイヤなんですよ。批判的に言うのはほとんどなくて、むしろ面白いという形で言うわけですよね。「面白い」なんて言ってくれるなという気があるんですよ、ぼく。

 谷川 あ、ほんと。

 小室 そういうこと言う前に、面白がっているんだったら何か書いてほしいと。

 谷川 それはさあ、書けないんだよ、基本的に。つまり、現代詩人というのはやっぱり歌を失っているんですよ。歌を失っているから逆に言えば現代詩みたいなものが出てきたんですよ。それは、形として韻文ではなくなっているということが一つと、それから実際に書き手の精神内容として歌を歌うという高揚した感じで詩は書けないということと両方あるんだけどね。それは、たとえば現代作曲家がメロディーが書けないこととパラレルだと思うんですよ。だからトーン・クラスター〔密集する複数の音を同時に演奏すること〕が出てくるとか、セリー〔作曲の基礎として用いる音列〕がどうの、チャンス・ミュージック〔作曲や演奏に偶然性を用いた音楽〕がどうのというふうになってくるわけでしょ。あれはやはり歌というものを喪失しちゃってるんですよ。歌をなぜ喪失したかってことは、そういう芸術が成り立つ一種の共同体というものが破壊されたからだと思うのね。だから逆に言えば、ニューミュージックの人たちがあまりにもやすやすときれいなメロディーを書いたり歌い上げたりしてるのを見て違和感を感じるのは、そういう人たちは一体どういうところに根をおろしてそんなに歌を歌えるんだろうなというところにあるのかもしれないですよね。だから、そういう疑問をより鋭く感じてる人間は詩人になって、あんまり感じないで、同時代の中にある一種の共同性みたいなものをわりと信じられる人は作詞家になると言って言えないことはないという気がする。詩人の方が、ある意味では時代をもっと鋭敏に病んでいるとは言えるかもしれないですね。だから現代詩はますます孤立していって歌から遠ざかる。

 小室 そうするとたとえば、白秋とか西條八十とかそういう詩というのは、現代詩の人たちはどういうふうに受け止めてるんですか?

 谷川 やっぱりそれは「遺産」というふうな感じですよね。つまり、自分たちと同時代人とは絶対に思えないでしょ。それはいまの作曲家たちが自分はモーツァルトみたいな音楽は書けないと思ってるのと同じようなことで、西條八十にしろ白秋にしろいいものはいいけれど、そういうものと自分たちが断絶してるとは思わないけれど、ああいうふうな形で書くことは出来ないとは思ってますよね。

 小室 同時に、西條八十であったり北原白秋であったりするところというのは歌えてたわけじゃないですか。

 谷川 歌えたわけです、まだしもね。だから日本語の歌の余韻というのはまだあったんじゃない。その余韻がだんだん消えていくのが現代だという気がぼくはしてますけどね。かといって新しい歌の方というのもまだ分からないし、だいたい歌うことのできる精神状態というものがいまの時代にあるのか無いのかということが一番問題じゃないの。

 小室 そうです、そうです。それは大きい。

 谷川 詩人の中にもある種の歌性というのはみんな当然ありますけどね。でもそれはたとえば「ヴォツェック」と「ラ・ボエーム」を比べたようなものですよね。「ラ・ボエーム」のようなああいうきれいなメロディーはない、だけど「ヴォツェック」にも歌はあるんだけどそれはなにか断ち切られたような歌であるというふうな意味での歌性はあるにしてもさ、相当違う歌なんじゃないかな。だから多かれ少なかれ歌えないという自覚のもとにたぶん現代詩というのは成り立ってきた。それを今度逆にひっくり返して、一種のパロディックな形であれ、歌えるんだと言い出している若い世代もあるらしいけどね。そういうのはわれわれから見ると、なにかほんとかなあという感じがありますね。でなければ、これはフィクションなんじゃないかという感じね。

 小室 ぼくはさっき、まだ可能性はあるというふうに言ったんだけども、自分の歌っているところを正直に言うと、歌えないんですよね。歌という暗いものでしかなくて、だけどそんな暗いものなんか歌いたくないという気があるわけだけど、同時代性みたいなことを考えると、アッケラカンと明るい歌は歌えない。少なくともハリー・ベラフォンテが「マチルダ」と歌ったようなことはもうやれない。歌がウサを晴らすようなところがもしあるとすれば、もうちょっと現実を離れて楽しんでいいんじゃないかと思うわけですよ。ところが現実を離れて楽しむ余裕も与えてくれないというか、そんなふうに楽しめないというか……。歌いたいことというのが、その時代と無関係でないとすればもう暗い歌しか歌えない。

 谷川 でなければ、時代を離れてではなくて時代を見返すとか、からかうとかさ……。

 小室 全くパロディーにしてしまうとか……。

 谷川 そういうふうな方向へ行くしか仕方がないんじゃないかな。

 小室 ぼくなんかそういうパロディー的な資質は余りないし、そういう意味では辛いです。

 谷川 そうかもね。もし暗くなるんだったら徹底的に暗くなるのも一つの手だと思うんだけどね。

 小室 でも、もう自分がウンザリしてきますから(笑)。

 谷川 何事も徹底してやってみなければ向こう側に出られないんじゃないかという気がするのね。だから暗くなりそうだと思ったらどこまで徹底して暗くなれるかという感じでやってみないと駄目なんじゃないかっていう気がするのね。たとえイヤでもさ。

 小室 だからタモリみたいなの見てるとほんとに不愉快でね、嫉妬に駆られたりするし。

 谷川 彼はまた純粋だからね。あそこまで言葉に潔癖な人は少ないよ。いま偽善じゃなく言葉をしゃべろうと思ったら、やっぱりどうしたってハナモゲラふうにならざるを得ない(笑)。

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