アメリカン・ジャーナリズムの仕事
若林恵
ジャーナリストを主人公にした映画というのは、ハリウッドのひとつのお家芸だ。『市民ケーン』はある新聞王の生涯を記者が追うものだったし、『ローマの休日』のグレゴリー・ペックも、『スーパーマン』のクラーク・ケントも思い返してみると新聞記者だった。個人的には、『インサイダー』という映画のなかで、タバコ業界の隠された陰謀を内部告発するラッセル・クロウを後押しする熱血テレビプロデューサーを演じたアル・パチーノの勇姿が印象に残っているが、ごくごく最近でも、カトリック神父の醜聞を暴いたボストン・グローブ紙の奮闘を描きアカデミー賞を受賞した『スポットライト』、CBSテレビの良心と長らく謳われてきた硬派報道番組「60ミニッツ」の名アンカー、ダン・ラザーの退任劇の舞台裏を追った『ニュースの真相』、ワシントン・ポスト紙の社長の座を継いだ女性社長の英断を描いた『ペンタゴン・ペーパーズ』など(いずれも主人公に、魅力的な女性が配されているのが「いまどき」と言えるだろうか)、「ジャーナリズムの物語」は事欠かないどころか、むしろ大いに盛況だ。
ことアメリカでは、秘された悪事を暴いてみせるジャーナリストは、文字通りの意味で「ヒーロー」なのだろうし、従来の新聞やテレビが担ってきた「ジャーナリズム」の社会的価値がソーシャルメディアに押されるかたちで年々下落を続けているご時勢にあってはなおさら、「正義」の代弁者・執行者としてのジャーナリストの失地回復は急務とみなされているに違いない。
面白いのは、ハリウッドがそれを懸命に後押ししようとしている点で、そこにはどこか「恩義」のようなものすら感じられてならない。その恩義に理由があるとすれば、ジョセフ・マッカーシーによる赤狩りが猛威を振るった際にハリウッドを窮地から救ったのが、それこそCBSの名物アンカーマン/ジャーナリスト、エド・マローだったことなどが思いつくが、2005年にジョージ・クルーニーが監督を務めた『グッドナイト&グッドラック』は、まさに、そのエド・マローの赤狩りとの戦いを描いたものだった。
社会悪を正し、健全な民主社会を担保する存在として、ジャーナリストが果たしてきた役割と期待は、アメリカではいまなおとても大きい。アメリカ生まれの雑誌の日本版の編集長を務めるなかで、そのプライドと矜持は、折に触れて強く感じたことでもあった。新聞、テレビに限らず、ジャーナリズムの主戦場のひとつとして「雑誌」はいまなお大きな役割を担っている。自分が携わっていた『WIRED』というテクノロジーメディアを発行するグローバル・メディアコングロマリット「コンデナスト」は、『VOGUE』『GQ』といった華麗極まりないファッション誌で世界中で知られているが、ジャーナリスト志望の若者が憧れてやまない高嶺としてそびえ立つのは、名門文芸誌『The New Yorker』と高級セレブ誌『Vanity Fair』の二誌だった。『プラダを着た悪魔』という映画の中ででアン・ハサウェイが演じたのは大学でジャーナリズムを専攻した女性だった。『The New Yorker』への就職を夢見てニューヨークへと「上京」し、そこで『VOGUE』と思しき女性ファッション誌の編集部に職を得るのだが、そのとき、彼女は女性ファッション誌を明らかに「格下」とみなして、その就職に落胆し、「格上」と彼女が信じてやまない文芸ジャーナリズム誌の、いけすかない編集長に手玉に取られたりした。
『The New Yorker』や『Vanity Fair』の最大の持ち味は、なんといっても緻密な取材と達意のストーリーテリング力に支えられた「ロングフォームジャーナリズム」と呼ばれるノンフィクション記事であり、その系譜はデイヴィッド・ハルバースタムや、『ペンタゴン・ペーパーズ』に登場したニール・シーハンといった王道ジャーナリストから、トム・ウルフやハンター・トンプソン、あるいはトルーマン・カポーティなど、より「文芸寄り」の作家の仕事にも連なっている。当代で言えばマイケル・ルイスなどが巨匠として君臨するが、『The New Yorker』の現編集長、デイヴィッド・レムニックもまた、その系譜において絶大な支持を集める人物にほかならず、バラク・オバマの評伝をものするなど作家としての地位も評価も高い。
自分が携わった『WIRED』も、そうした「ロングフォームジャーナリズム」の牙城のひとつとみなされ、かつそうであることに誇りをもつメディアだった。カバーストーリーと呼ばれる各号の目玉記事は、つねにずっしりとした読み味のノンフィクションストーリーで、自分が日本版の編集長を務めていた間にも、ビットコインを使った闇ドラッグサイト「シルクロード」の首謀者を追い詰めるFBIの内幕を追ったクライムドキュメンタリー(この記事を書いたジャーナリストは映画『アルゴ』の原作記事を書いた人物で、その記事の初出もUS版の『WIRED』だった)、ミシガン州フリントで起きた水質汚染公害とそれを明かしたシチズン・サイエンティストたちの活躍を描いた社会派ルポ、あるいは遺伝子編集技術CRISPR-Cas9の特許取得をめぐる科学者たちの暗闘を描いたサイエンスルポなど、読み応え満載のルポルタージュの翻訳を掲載した。それらはいずれも日本語にして優に二万字は超えるもので、それを読む体験は、単なる雑誌記事を超えて実録映画を観るに近いもので、「なるほど、雑誌というのは、こういう価値を提供するものでもあるのか」と、いつも感心したものだった。
こうしたロングフォームのノンフィクションストーリーを書くことのできる書き手が日本にはめっきり少なくなっていることは言うまでもないことかもしれない。それを掲載し、取材をサポートするメディアがなければ書き手が育つわけもない。ただ、日本でこうした記事スタイルが広まらない理由は、どうやらそれだけではないようだ。いつだか懇談した際に、英国版の『WIRED』の編集長が、彼もまた同じような問題に直面していることを明かしてくれたことがある。
「アメリカ版のように、長く読み応えのあるノンフィクション記事を企画しても、イギリスにはアメリカのジャーナリストのような書き手がいないんだよね。というのも、イギリスのジャーナリズムはどちらかというとエッセイの伝統のなかにあるんだよね」
あくまでも断片的な知識だが、「イギリスのジャーナリズム」の一例に、たとえばジョージ・オーウェルのノンフィクション作品を思い浮かべてみたとして、それをアメリカでいうところの「ロングフォームジャーナリズム」と比べてみたらどうだろうか。オーウェルのそれは確かに「エッセイ」と呼ぶのがふさわしそうで、ある事件を再構築してそれを「物語」として語るアメリカのジャーナリズムの伝統とは随分趣きが違って感じられるはずだ。いずれにせよ、名のあるジャーナリストを訊かれて、パッと思い浮かぶイギリス人がいるだろうか。そしてことのついでに考えをよその国に移してみたとしたらどうだろう。有名ジャーナリストといって思い浮かぶフランス人、ドイツ人、イタリア人、スペイン人……お恥ずかしながらまったく思い浮かばないのは、こちらが不勉強すぎるだけだからだろうか。そういえば、と、南米コロンビアの作家ガルシア・マルケスが新聞記者出身だったことを思いだしてみたりもするが、じゃあ一番身近なところで、「日本を代表するジャーナリスト」と言ってみたところで、一体誰の名前が挙がることになるのだろう。
「エッセイの伝統」が、英国同様、ここ日本においても優勢と言えるかもしれないのは、「科学」の読み物を見てみるとよくわかる。欧米を中心に「ポピュラーサイエンス」というジャンルは大きなマーケットを持つもので、日本でもそのジャンルに該当する科学ノンフィクションは人気が高いが、このジャンルを支えている書き手は「科学ジャーナリスト」と呼ばれる人たちであって、科学者ではない。日本には、この肩書きを持つ人が圧倒的に少ないと言われるし、実際国産の科学ノンフィクションはほとんどみかけない。
代わりに、日本で刊行される「科学モノ」は、圧倒的に科学者自身の手によるものが多く、自分の専門分野を一般向けに解説したものだったり、そこで得た知見をスコープとして、政治から社会、文化にいたるまで、専門領域外の事象を綴るものが主流を占めている。「科学者によるエッセイ」は、実際、実に根強い人気をもつ。その伝統は、寺田寅彦あたりからきっと連綿と続くものに違いなく、そこでの科学者は、あらゆる事象に明るい「超一級の知識人」とみなされているはずだ。いずれ文化人と呼ばれることになる知識人の類型の中で、科学者は重要な座を占め、そのアウトプットとしての「エッセイ」は大きな社会的役割を担うこととなる。エッセイストという肩書きのなかに広義の意味での批評家を入れたとしたら、ジャーナリストとエッセイストの社会的な影響力は、圧倒的にエッセイストの方が優勢と言えるのではないだろうか。
ジャーナリストという職能は、新聞やテレビがあって「報道」というものが行われている限りにおいて世界のどこでも同じ社会的機能や役割を担っていそうに思えるが、実際はそうでもないのかもしれない。
アメリカの雑誌文化に近いところで仕事をしてきて思うのは、「ジャーナリズム」というのは、そう思われているようには普遍的なものでは決してなく、むしろアメリカ固有のアートフォームなのかもしれないということだ。そもそも、「文芸誌」と呼ばれるもののなかに詩や小説、批評と並んで、硬派な政治ルポが平気で混じっていることからして、不思議に思うべきだったのだ。ジャーナリズムは、日本でエッセイが文学史の重要な一角を占めるのと同じように、アメリカの文学史の重要な一翼を担うもので、「ニュー・ジャーナリズム」なんていう概念は、たしかにアメリカ文学史の授業で習うものでもある。日本では想像しにくいことだが、ジャーナリストたちの記事や作品は、単に「報道」の延長線上にあるのではなく、ひとつのアートフォームとして、文芸の歴史のなかにも、その居場所がちゃんとある。そして、それが文芸であればこそ、単なるニュース配信に止まらない使命をもつ。
海外の雑誌の現場では「ストーリーテリング」という言葉がやたらと使われるが、その意味を、「人を描くこと」だと自分は理解している。ストーリーには必ず登場人物がいて、その人物がある状況のなかで人と関係性を結び、その関係性のなかにおいて七転八倒する。政治だろうと、スポーツだろうと、ビジネスだろうと、カルチャーであろうと、アメリカのジャーナリズムにおいては、テーマがなんであれ、ストーリーの焦点は、つねに「人」にある。そしてそうであるからこそ、専門外の人が読んでも面白く、ときに感動することさえできる。
テクノロジーを主題にしたメディアに携わってきたからといって、自分がテクノロジーの専門家だったわけでは決してない。どちらかといえば完全な門外漢だったのだが、それでも、デジタルテクノロジー界隈で起きていることを眺め、それを題材に記事にすることがさほど苦でもなかったのは、「主題は人である」という姿勢を、アメリカのジャーナリストたちに見せられ、それに勇気づけられてきたからだ。そして実際テクノロジーの場合、技術そのものの話なんかより、それを開発した人や、それに関わった人たちの話、あるいはある技術やサービスによって人生をめちゃめちゃにされてしまった人の話の方が、はるかに細やかに、その技術のなんたるかを教えてくれることがある。技術そのものの話は抽象的すぎて理解できなくとも、それを作り上げた人の苦難や苦闘には、自分を重ね合わせることができる。
「共感」なんて安手な言葉は使うまい。あるモノや出来事が社会にもたらす複雑さは、人を通して立ち現れてくる。そしてそこに具体的な個人がいる限り、人はその人の立場に身を置いて、その複雑さを身をもって知ることができる。ジャーナリストたちがことさら口にする「ストーリーテリング」の力は、そこに宿る。そしてハリウッドがつねに、ジャーナリズムの仕事に惹かれてやまない理由も、きっとそこにある。
(『図書』2018年8月号初出)