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若林恵『さよなら未来――エディターズ・クロニクル2010-2017』

特別寄稿エッセイ 若林恵「未来は静けさの中に」

『さよなら未来――エディターズ・クロニクル2010-2017』刊行に寄せて、著者の若林恵さんがWEB岩波「たねをまく」に書きおろしてくださったエッセイです。

未来は静けさのなかに

若林恵


 コモンズということばには「入会地」「共有地」という日本語があてられるが、もっとひらたいことばでいうと「みんなのもの」ということになる。お爺さんが芝刈りに行くときの山はコモンズだし、お婆さんが洗濯に行くところの川もまたコモンズだ。現代の日常に即していえば公園などもそれに当たるはずだ。公共空間という概念と重なってはいるけれどニュアンスも射程もちょっと違う。コモンズは、なにも物理的な空間だけを指し示すものではないし、もっとひそやかで微妙なものを包合している。たとえば、イヴァン・イリイチという思想家・歴史家の文章には「Silence is a commons」という文章があって、「静けさはみんなのもの」という素敵な邦題がついている。ちょっとだけ引用してみよう。

1926年にわたしがこの島に着いたとき乗ってきたその同じ船で、拡声器がはじめてこの島に上陸しました。そんなものを聞いたことのある者はほとんどいませんでした。その日まで、男も女もすべて、多少の優劣はあるにしても、同じように力強い声で話していたのです。しかし、それ以来、事情は変わりました。それ以来、マイクに近づくことが、だれの声を拡大するかということを決定するようになったのです。いまや、静けさはコモンズ〔みんなのもの〕ではなくなりました。静けさは、拡声器がそれを奪いあう対象としての資源になったのです。それによって、言語それ自身も、地域的なコモンズから、コミュニケーションのための国家的な資源にすがたを変えました。(イバン・イリイチ/桜井直文監訳『生きる思想』藤原書店)

  いつだったか、ある大手家電・ホームメーカーのショールームを訪ねたことがある。そこはそのメーカーが考える「未来の家」ということになっていて、IoT化された寝室のベッドにはセンサーが埋め込まれ、眠る人の心拍や眠りの深さなどを測っている。そこまではいい。問題はそこからだ。そのスマート寝室は、たとえばあなたがビタミン不足だったことを察知するなり、あろうことか天井にあるモニターにビタミン剤などの広告を映し出すというのだ。これもまた「静けさ」が「拡声器」によって「奪いあう対象としての資源」にされようとしている典型。みんなの夜の静寂なぞとっととサプリメーカーに売り飛ばしてやれというわけだ。なんという破廉恥。恥知らず。日本最大手の家電メーカーにしてこの思慮のなさ。創業者はさぞかし草葉の陰で泣いておろう。

 ここでの論点は「プライバシー」ではなく、みんなが安らぐべき夜の静けさのなかに私企業が土足であがりこみ、それを広告ビジネスの「資源」に変えてしまう、そのこと自体なのだ。その是非も問わぬまま、かつてコモンズであったあらゆるものを経済資源へと作りかえてしまうのが、いまの世のありようで、イリイチが危惧したのは、いずれ人間そのものがそういうものに成りさがってしまうことだった。そして、それこそがまさにいま起きていることなのだ。
 デジタルテクノロジーの門外漢である自分が『WIRED』というメディアに関わることとなったのは2010年のことだが、その時点からいまにいたるまでの積年の問いのひとつはこのことに関わる。すなわち「インターネットはコモンズなのか」だ。(ついでにもうひとつ積年の疑問を言っておくと「情報はタダになりたがっているってほんとかよ」だ)。
   かつてインターネットがよかったころ、そこはカウンターカルチャーの夢が託された希望の空間だった。国家や巨大産業に依存しない自立自存した生を実現するためのコモンズ。けれども、その夢が続いたのもせいぜい10年だろうか、インターネットはやがて、コモンズであるかのような装いはそのままに強欲な経済空間へと自らをつくりかえていった。2009年には「プライバシーはもはや規範ではない」なんてことが大っぴらに語られるようになり、「あなたはフェイスブックの顧客ではない。製品なのだ」と批評家のダグラス・ラシュコフが正しくも指摘したのは2012年のことだった。

 YouTubeが出てきたとき、それはたしかに面白いもののように思えた。SNSにもなんらかのポテンシャルはあるのだろうと思いもした。そして、それらのサービスはいったいどうやって維持されていくことになるのだろうと気にかけた。その手があったか!と膝を打つような鮮やかなビジネスモデルが出てくることを期待していたのだ。けれども、FacebookやGoogleが出した答えは、あろうことか前時代の「広告モデル」だった。「なんだ」とがっかりしたのを思い出す。いまさらそれかよ。
 すでにして旧来のメディア産業は、20~30年にわたる「広告モデル」の専横によって弱体化、疲弊し、すっかり覇気が奪われていた。新しいテクノロジーの登場がその失われた覇気を取り戻す契機になるとの期待は、それが旧態依然の広告モデルにおもねった瞬間に潰えた。そんなことなら、こっちはとっくに経験済みだよ。それ、つまんないものしか生まないよ。どうせ、うまくいかないよ。
 そうこうするうちにフェイクニュースの季節とともにブレグジットとトランプがやってきて、デジタルイノベーションが語る未来にいよいよ暗雲が立ち込めてくる。そして2018年の今年ともにもなればFacebookやGoogleはすっかり悪玉だ。「石油ビジネスが地球を収奪し環境を破壊したように、SNSは人を収奪し社会を破壊した」。厳しい批判を前にして、説得的な反論がないことも明らかになりつつある。「彼らに残された時間は長くない」。今年行われたダボス会議でジョージ・ソロスはそう糾弾した。
 ベルリン在住のメディア美学者・武邑光裕は、その様相をして「インターネットをゼロから再構築する時代がはじまる」とする。GDPRを嚆矢としてヨーロッパではじまるデジタルテクノロジーに対する厳しい規制は、やがてAIやブロックチェーンにまで及ぶというのが武邑先生の見立てだ。世界は、いま再び大きく姿を変えようとしているのだ。思えば『WIRED』でつくった最初の号から、「テクノロジーはぼくらを幸せにしているか?」という大げさな問いを立てていたのだが、7年間その問いと向きあった挙句、また振り出しにもどってしまったというわけだ。インターネットは今度こそ、正しくコモンズとなりうるのだろうか。
 
 『WIRED』のプリント版のために書いたテキストをとりまとめてくれた副編集長のTが、読んで漏らした感想は「最初っからずっと同じことしか言ってないですね」だった。面と向かって言われるとさすがに情けなくなるが、実際のところその通りだろう。当初から抱えていた疑問の答えをどこからも誰からも得ることができず、仕方なく自力で探し回る羽目になったというのがこの7年の顛末であれば、その間に書いたテキストを集めたものは堂々めぐりの軌跡になるほかない。もっとも動いていたのは時代のほうで自分は同じ場所でとぐろを巻いていただけと思えば、軌跡の語すらおこがましい。座礁とでも呼ぶのがちょうどいいくらいのものだ。そんなものに価値を見出し本にしてくれる人がいることはまったくもってありがたいことではあるけれど、それこそが社会の劣化の証だろうと思う気持ちはなくもない。マルクス兄弟だかウディ・アレンだかの名言(「自分が会員になれるようなクラブになんか入りたくない」)に倣うなら、自分のことを価値だとするような社会を立派な社会とは思いたくない。
 もっとも座礁していたからといって孤独を感じるようなことは特段なかった。読むべき本はいくらでもあったし、聴くべき音楽もいくらでもあった。会うべきひとにもたくさん出会えた。探さずとも向こうから探しあててくれる人も少なからずいた。頼りになるもの、あてになるひとは、どこかにいる、出会うべくして出会う。焦ることはない。ただし、その声はひそやかにして繊細なものなので、雑音まみれの世の中にあって、それを聴きわけるには細心の注意がいる。だからこそ、静けさは大事なのだ。声がでかいヤツの声だけがやみくもに増幅されていく世の中はほんとうにイヤなものだ。そういう声が語る未来になんか、誰がいくもんか。

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著者略歴

  1. 若林 恵

    1971年生まれ。編集者・ライター。ロンドン、ニューヨークで幼少期を過ごす。早稲田大学第一文学部フランス文学科卒業後、平凡社に入社し、月刊『太陽』を担当。2000年にフリー編集者として独立し、以後、雑誌、書籍、展覧会の図録などの編集を多数手がける。音楽ジャーナリストとしても活動。2012年に『WIRED』日本版編集長に就任。2017年退任。2018年、黒鳥社(blkswn publishers, http://blkswn.tokyo )設立。

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