特別寄稿エッセイ 若林恵「ちがった正解 ワールド・スタンダード「Music For Ringing」について」
ちがった正解 ワールド・スタンダード「Music For Ringing」について
若林恵
音楽家の鈴木惣一朗さんとは、かれこれ11年来のお付き合いとなる。鈴木さんと、鈴木さんが人生の師として敬愛する細野晴臣さんとの対話をまとめた『分福茶釜』という本の編集をお手伝いしたのがきっかけだった。それは、細野さんの還暦に合わせて2008年に出版された。6年後、その続編となる『とまっていた時計がまた動きはじめた』の制作の際にも声をかけていただき、おふたりの対話を真横で聞かせていただく光栄に再び浴した。それは何にも代えがたい贅沢な時間だった。
細野さんと鈴木さんは年齢がちょうどひと回り離れていて、その鈴木さんと自分もまたちょうど一回り離れている。3人ともイノシシドシだ。その鈴木さんは、来年還暦を迎え、わたしは初めて出会ったときの鈴木さんと同じ年齢となる。
鈴木さんとは音楽の趣味などが近いこともあり、会うたびにたくさんの新しい音楽を教えてもらい、いつも話題に欠くことがない。けれども不思議なことに、お互いの仕事の話にはほとんどならない。ただの音楽愛好家同士として、まるでサークルの先輩と雑談してるような気安さで、最近気になってる音楽の話題などについて長々と喋ってしまう。
だから、というのも言い訳にはならないが、鈴木さんが日頃耳鳴りに悩まされていることは、うかつにもほとんど気がつかなかった。ので、ワールド・スタンダードの新作の概要を、ご本人ではなくレーベルの担当の方から聞かされたときには、とても驚いた。
アルバムのコンセプトとなるほどまでに、それは、鈴木さんを強く悩ませていたのか。アルバムとセットとなったブックレットには、いくつもの病院に通い、眠れぬ夜をやり過ごすためにさまざまな試行錯誤をした、鈴木さんの日々の苦闘が綴られている。けれども、鈴木さんは、そんなことは普段おくびにも出さない。「耳の調子があまり良くなくて」。さりげない感じでそう言うのを、言われてみれば、聞いたことがあったような気がしなくもない。
広く言うと「障害」をテーマとしたアルバム、ということになるのだろう。耳鳴りに悩まされ続けてきた音楽家が、自分の耳と、自分の心を癒すためにつくった作品は、けれども、そんな言い方をしてしまうと、ちょっとだけ腰が引けてしまうものになってしまう。当事者ではない自分は、はたして、当事者である鈴木さんが当事者としてつくった音楽と、どう向き合うことが可能なのだろうか。そんな心配を、聴く前にはしていた。自分はそれを聴いて共感することができるのだろうか。難解な思考の操作をせずには楽しめない音楽なんじゃないだろうか。
けれども、いざ聴いてみると、それらはすべて杞憂だった。この作品は、きっとアンビエント的で、非音楽的なものに違いないと思っていた自分の予想は見事に裏切られた。作品は、チェロやピアノなどの生楽器がふくよかに、ときには朗々と響く、実に実に音楽的な作品だった。耳鳴りのする耳に優しい音、と言ったときに、それがホワイトノイズ的や波の音のリフレインでなくてはならないというのは、それこそが偏見というものだ。
そうか。鈴木さんは、耳にやさしいピアノの音、弦楽器の音、ベースの音とはどんなものかを、この作品で改めて問い直しているのだった。それが優しく響く楽曲はどういうもので、どういう録音の仕方をすれば、最大限にその優しさを引き出せるのか。鈴木さんは、耳鳴りのする音楽家の耳を通して試行錯誤を繰り返し、そのなかから、誰も試したことのないフォーミュラ(公式)を探ろうと試みたのだ。
結果鈴木さんが、このアルバムで定着させた音は、形容するのがとても難しい、独特の肌触りをもつものとなった。低解像度のようでいて高解像度のようにも聴こえ、つややかなようでいてざらついていたりもして、生々しいようでいて高度に制御されてもいる。古くさい音のようでいて、なんだかとても新しい音でもあるようだ。
それもそのはずだ。音づくりにおいて何を正解とし、何を不正解とするのか。この作品におけるその基準は、明らかに普段わたしたちが耳にしているものとは違っている。普段、わたしたちが聴いているものは、だいたいにおいて、「平均的な健常者の耳には、だいたいこう聴こえているはず」という前提に向けて最適化されているはずだ。けれども、このアルバムでは、その前提はいったん保留され、それとはまったく異なる基準値に基づいてあらゆる判断が下される。
「どうやってこれらの音を決めて行ったのだろう?」「なんで、この音が『正解』なんだろう?」「鈴木さんの耳に、これはどう聴こえてるんだろう?」。アルバムを聴いていると、自然と疑問が湧いてくる。自分が当たり前だと思っていることが当たり前でない世界においてつくられた音楽は、「なぜ?」の連続だ。そしてその疑問の答えを求めて、想像力がゆっくりと首をもたげはじめる。
当たり前が、そうやって外から揺すぶられるとき、そこには新しいものが生まれ出る萌芽がある。鈴木さんがこの音楽をつくるなかで見出した特殊なフォーミュラは、なにも特殊なフォーミュラとしてだけ留められるばかりのものではない。来るべきレコーデッドミュージックのスタンダードにだってなりうるかもしれない。耳鳴りのする音楽家の耳に優しい音楽は、なぜだろう、耳鳴りのしていない自分の耳にもとても優しく届いた。