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若林恵『さよなら未来――エディターズ・クロニクル2010-2017』

特別寄稿エッセイ 若林恵「ビヨンセの帰還 HBCU・ビアフラ・ワカンダ」

ビヨンセの帰還 HBCU・ビアフラ・ワカンダ
若林 恵

 HBCUの憧れ
 ビヨンセが、2019年4月17日に突然リリースしたライブアルバム『HOMECOMING: THE LIVE ALBUM』は、2018年4月18日とその翌週のコーチェラ・ヴァレー・ミュージック & アーツ・フェスティバルで披露された、2回限りのライブパフォーマンスを収めたものだ。アルバムがリリースされた当日には、同じタイトルのライブドキュメンタリー映画がNetflixで配信開始された。

 アルバムと映画が配信されたその日は夜まで仕事があり、終えた後も会食などをしていたせいで帰宅したときには、夜中の2時をまわっていた。1時間49分の長さのアルバムをその日のうちに聴ききるのは、さすがに無理かとも思ったが、結局続けてふた回り聴くこととなった。眠りについたのは6時すぎだった。アルバムを2度も通しで聴き続けるなんてことは、しょっちゅうあるわけではない。むしろ極めてレアなことだ。有無を言わせず聴き続けさせる圧倒的な迫力とユニークさが、この作品にはある。

 アメリカの主要メディアは、この突然のリリースに驚きながらも即座に反応し、ネットは本作のレビューですぐに賑わうこととなった。そのなかで、あらゆるレビューが改めて言及していたのは、「HBCU」というものについてだった。

 HBCUは、「Historically Black Colleges & Universities」のことで、日本語では「歴史的黒人大学」という訳語があてられている。奴隷制からは解放されたものの人種隔離がまだあたりまえであった時代、アメリカには黒人のための大学があった。もちろんいまではほかのあらゆる人種に門戸が開かれた普通の大学となっているそうだが、いまも黒人学生の比率が高い。ビヨンセの父親は、HBCUの出身だそうで、幼い頃ビヨンセもHBCUに入学することを夢みていたのだという。もっとも、高校時代にデスティニーズ・チャイルドのメンバーとしてプロシンガーのキャリアをスタートした彼女が、そこに通うことは叶わなかったのだが。

 HBCUには、ブラックカルチャーに根ざした伝統がいまなお残っているといわれる。その象徴がマーチングバンドだ。ビヨンセの『HOMECOMING』は、このHBCUのマーチングバンドがモチーフとなっている。鼓笛隊、ブラス隊、ストリングス、コーラス、ダンサーなどによって構成された総勢200人を超える「ブラック・オーケストラ」は、バルマンが誂えた衣装を身にまとって、ビヨンセとともにステージに立った。

 デスティニーズ・チャイルド時代から最近作となる『レモネード』まで、ビヨンセのキャリア全体をカバーしたレパートリーは、ある意味わかりやすくビヨンセ作品の見本市だ。けれども単なるヒットコレクションでは決してない。ビヨンセは200人のオーケストラとともに、過去の曲をHBCUのマナーをもって書き換え、そのすべてをいままで歴史のなかに隠されてきた知られざるブラックカルチャーの文化体系を通じて語り直している。だからこそ、既知の曲であっても、すべてがまったく違ったものに聴こえる。ただ新規にアレンジを施したというレベルではない。

 マーチングバンドというのは、聴けば聴くほど不思議なものだ。それ自体には固有の音楽ジャンルが紐づいているわけではない。もちろん、黒人のドラムラインやマーチングブラスには、ニューオリンズやカリブの国々に残る、カーニバルや葬送のためのマーチングバンドの影響が色濃く反映されているが、とはいえ、マーチングバンドは、たとえばジャズやニューオリンズのセカンドラインといった特定のリズムやスタイルに、その音楽が拘束されるわけではない。

 90年代のブラックミュージックを席巻したプロデューサー、ダラス・オースティンの体験を下敷きにした映画『ドラムライン』でも、そこで演奏される曲は、アース・ウィンド&ファイアからジャクソンズからリムスキー・コルサコフまでと、レパートリーは多岐にわたっていた。マーチングバンドは、その固有の楽器編成と独特の演奏の仕方をもって、どんな曲を演奏しても、すぐにそれとわかる特殊なサウンドをつくりあげる。要は、それ自体が明確な個性をもった、ひとつの巨大な楽器なのだ。

 マーチングバンドは、その出自が軍隊の鼓笛隊であることから、きわめて規律性の高い音楽組織で、それは黒人のマーチングバンドであっても変わらない。映画『ドラムライン』における練習の厳しさは、映画『セッション』のそれに引けを取らない。けれどもビヨンセは、彼女のドラムラインが、規律一辺倒になりメンバー全員が均質に見えることをことさら嫌がったことがドキュメンタリー映画では明かされる。ステージに立ったメンバーは、一糸乱れぬタイムキープをしながらも、演奏をひとりひとりが存分に楽しんでいるように見える。

 とはいえ当代最高の歌姫の一世一代のステージだ。ひとつのミスノートも許されない最高度、最難易度のプロフェッショナリズムが要求される空間であることも間違いない。ビヨンセの要求は高い。そのマーチングバンドには、世界最高レベルの規律と世界中の聴き手の心を浮き立たせ憧れさせる世界最高の遊び心とが妥協なく統合されなくてはならない。そして、おそらくそれこそが、彼女をしてHBCUのマーチングバンドに憧れさせたものだったにちがいない。バカみたいに上手く、統率がとれていて、バカみたいにファンキーでセクシーなブラック・オーケストラ。

 ビヨンセは、そのHBCUのマーチングバンドの様式とエトスをもって、自身の曲を全面的に解釈し直すのだが、こうしたマーチングバンドがギミックや演出の一環として採用されたことはあっても、それがポピュラー音楽のど真ん中において、そのサウンドの根幹に据えられたことはこれまでなかったことだ(改めて過去作を聴き直してみると、ビヨンセはそれをずっとやってきたことに気づくことにもなるのだが)。何度聴いても、本作から耳を離すことができなくなるのは、それが、これまで聴いたことのある音楽とはまったく異なるオーケストラの様式、まったく異なる響きの形式を通してつくられているからだ。簡単に言うと、スーザフォン(チューバに似た低音の管楽器)の音色が全編にわたって鳴り響くようなポップアルバムは、かつて存在しなかった。『HOMECOMING』でビヨンセが提示した音楽は、間違いなく、これまで誰によっても試みられたことのないものだった。

 名バラードの「Drunk in Love」や、可愛らしいダンスチューンの「Baby Boy」が分厚く勇ましいブラス隊と観客も含めたチャントに煽られて、アルバムのそれとはまったく異なるダイナミズムと飛躍力を得ていくさまを聴けば、その未体験の高揚感にきっと驚くはずだ。

 そして、それはあたかも現実のものとはまったく違う歴史的時間と空間から、突然現実の時間のなかに挿しこまれた異次元の音楽のように響く。HBCUの文化的伝統に根ざした、現実の歴史とはまったく異なる音楽の歴史が展開していたなら、いま音楽はこんなふうなものになっていたのではないか。オルタナティブでバナキュラーな音楽をめぐる世界史の実験が、ここでは展開されている。もちろん、そこには、HBCUに通っていたかもしれない失われた過去を、このステージを通してビヨンセ自身が生き直すという夢も描き出されている。

 レパートリーはたしかにビヨンセの曲ではあるし、いまのブラックミュージックに似てはいる(その音楽的レファレンスは、ニーナ・シモンからアウトキャスト、TRU、UGKといった南部ヒップホップ、レゲトン、ダンスホールレゲエ、レゲエ、ゴーゴーにまで及ぶ)。けれども、それは異なる時間、異なる歴史に属した、パラレルワールドから届いたもののように聴こえる。

 ありえたかもしれない歴史をもつ、ありえたかもしれない国からやってきた音楽。そんなことをつらつら考えながら、そういえば、ビアフラ共和国という国が、そう遠くない昔にアフリカにあったことを思い出した。
 
 ビアフラの蹉跌
 ビアフラ。と言っても、ある世代よりも上以外の人はほとんど聞いたことがないかもしれない。そういう自分もリアルタイムでその存在を知ることはなかったし、見たこともなければ、もちろん行ったこともない。その国は、わずか3年弱存在しただけで、1970年にこの世から消えてなくなった。カート・ヴォネガットとフレデリック・フォーサイスというふたりの作家の文章を通じて、そういう国がかつてあったことを、後から知ることになっただけだ。

 その国は、現在はナイジェリアの沿岸東部にあった。もともとはナイジェリア国内の一地域だった。ビアフラ共和国の大勢を占めたイボ族は、ナイジェリアに暮らすいくつかの部族のなかでも群を抜いて知的で、教養もあり、しかも商売が上手だった。ヴォネガットもフォーサイスも、彼らの勤勉さや謙虚さ、優雅な物腰に魅せられ、熱烈に賞賛した。

 けれども、それらの美徳はやがて他部族の妬みと警戒の対象となっていく。ビアフラ人は、アフリカのユダヤ人と呼ばれてもいた。部族間の亀裂はやがて対立となり、それが激化していくにつれて、凄惨なリンチが起きるまでに抜き差しのならないものとなっていく。追い詰められたビアフラ人は、ナイジェリアからの分離独立を宣言するが、それを嫌った他部族と旧宗主国のイギリスは、独立を反乱とみなし鎮圧という名の戦争を仕掛ける。ビアフラ側から見れば、それは「戦争」だったが、ナイジェリア側から見ると、それは「内戦」だった。

 知略に富んだビアフラ人は、戦力に劣りながらも当初は巧みなゲリラ戦によって戦局を有利に動かしていた。けれども戦争が長引くにつれて圧倒的な人員、物資を前にやがて劣勢に立たされるようになる。戦争の理不尽さを訴えるビアフラからの声はことごとく国際社会から黙殺され続けた。結果戦争はジェノサイドとなっていった(内政不干渉を盾にビアフラへの援助を禁じたナイジェリア軍をかいくぐってビアフラに潜入した外国人医師の一団が、のちの「国境なき医師団」の母体となった)。

 食糧の補給路を絶たれ、国民全員が飢餓に陥ることになった。手足がやせ細り、お腹だけが膨れ上がった、クワシオルコル症の子供たちの写真が戦争の戦線から配信され、国際社会はようやく事態の深刻さに気づく。が、時すでに遅しだった。ビアフラという国は、ほどなく跡形もなく消え去った。

 国が崩壊する直前まで首都に残っていた数少ない外国人のひとりにSF作家のカート・ヴォネガットがいた。彼はそこで見聞きしたことを、アメリカに戻って大急ぎで執筆し、McCall'sという女性誌の1970年4月号に発表した。

 「ビアフラ人は主としてキリスト教徒であり、格調の高い英語を話し、小都市の自由企業を経済の根幹にしていた。対外的には価値のないビアフラの通貨は、最後まで厳粛に尊重されていた。   ビアフラ国家のメロディーは、ヤン・シベリウス作曲の〈フィンランディア〉であった。熱帯のビアフラ人は北極圏のフィンランド人を尊敬していた。」

 「家族は、男女の区別なく、しばしば寄り集まっては、一族のことを表決した。戦争になっても、徴兵制度はなく、家族が集まって、だれが軍隊に入るべきかを決定した。
  もっと幸せな時代には、家族はだれが大学に行くべきか──どこでなにを学ぶべきか──を決定した。そうすると、みんなが衣服や交通費や授業料を持ち寄った。」

 「『おしまいだ!』と彼は叫び、幽霊のようにあわれな声で笑った。『いまもしビアフラが人類史の小さな脚注になるのなら、その脚注にはこう書くがよい──〈彼らは世界に対して、アフリカで最初の近代的な政府を与えようと試みた。彼らの試みは失敗に終わった〉」

 「『彼らはわれわれを地図の上のちっぽけな一点と呼ぶのですが』とオジュクウ将軍は言った、『そのくせ、だれもそれがどこにあるのか、ほんとうは知らないんです。
   そのちっぽけな一点のなかに、七百人の法律家と、五百人の医師と、三百人の技師と八百万人の詩人と、二人の第一級の小説家と、その他は神のみぞ知るだが、とにかくアフリカのあらゆる黒人インテリの約三分の一がいた。ちょっとした一点である。
  それらの知識人たちは、かつてナイジェリア全土にひろがって活躍していたが、各地でねたまれ、リンチにかけられ、虐殺されたため、故郷へ、小さな一点へもどっていた。
   その点はいまや消えてしまった。魔術のように。」
(「ビアフラ──裏切られた民衆」『ヴォネガット、大いに語る』所収)
 
 シベリウスを古代マリンバで演奏し、それを国歌として慈しんだ人びとを、英国が帝国主義的エゴのために見殺しにしていることに義憤を感じたフレデリック・フォーサイスは、勤めていたBBCを退社し、自腹でビアフラへと身を運び、そこで目撃した悲劇をルポルタージュとして認めた(『ビアフラ物語』というタイトルで日本語訳も出版された)。それはフォーサイスの作家としての最初の仕事となった。近年発表された自伝『アウトサイダー  陰謀の中の人生』でも、フォーサイスはこの戦争の実態を詳しく述べ、英国政府の犯した罪を激越な怒りをもって指弾し直している。ある英国外交官僚については、実名で、生涯許さないとまで書いている。

 ヴォネガットやフォーサイスが、ビアフラに強い愛着を寄せたのは、悲惨な状況への同情からではなかった。彼らは、ビアフラ人によるビアフラ国家に、近代化と植民地支配とによってめちゃくちゃにされたアフリカが、自分たちの手で、自分たちの文化や伝統にふさわしい近代化を成し遂げる可能性を見ていたはずだ。だからこそ、西洋諸国がもたらした混乱のなか、アフリカ人同士が銃を向けあう愚かな事態によって、その夢が潰えていくことを許しがたく感じた。

 西洋の押し付けではないオルタナティブでバナキュラーな近代というものがありえたかもしれないという期待は、アジアでも中東でもアメリカ国内でも、おそらくどこでも、世界中で夢見られながら、いまなお超克しえない困難として、いたるところに横たわっている。

 ワカンダの夢
 映画『ブラックパンサー』に描かれた、西欧諸国に干渉されることなくアフリカで独自の発展を遂げたハイパーモダン国家「ワカンダ」は、まさにそうした夢の続きだった。いまにして思えば、ワカンダに最も接近しえたかもしれなかったのは、いまは失われてしまったビアフラだったのではないのかと、取り返しのつかない残念さとともに、ありえたかもしれない歴史を夢想してしまう。 

 ビヨンセがHBCUに見ようとした夢は、まさにそういうものだったのではないだろうか。黒人の文化と伝統のなかから、自分たちの手で、自分たちに最もふさわしい知性と教養とを育み、その知性を通して自分たちにふさわしい近代的な社会システムがつくられていたなら。ブラックカルチャーによって織りなされ、その文化をもって運営、統治された、もうひとつの国があったとしたら。そこでは、あらゆる音楽のなかに規律正しくグルーヴする鼓笛隊のドラムや晴れやかで伸びやかなブラス隊の音が絶えず鳴っていたのかもしれない。スーザフォンの優雅な響きが、シグニチャーサウンドとなっているような音楽が、そこではメインストリームとなっていたかもしれない。
 
 (余談だが、ビヨンセは、母親のティナ・ノウルズが主催したアートオークションガラに、長女のブルー・アイビーとともに映画『ブラックパンサー』をテーマにした衣装で出席したことがあり、ビヨンセは、その席でロレイン・シュワルツのパンサー・モチーフのイヤリングを落札している。また、映画『ブラックパンサー』のセットデザインを手がけたプロダクションデザイナーのハンナ・ビーチラーは、ビヨンセの『レモネード』のMVのプロダクションデザインを手がけた人物であり、『ブラックパンサー』の衣装デザインを手がけたルース・カーターは、かつて映画『マルコムX』の衣装を手がけている。マルコムXといえば、2016年のスーパーボウルでビヨンセは、50周年を迎えたブラックパンサー党にオマージュを捧げるパフォーマンスを披露したが、その際のコスチュームデザインを手がけたザナ・ベインも『レモネード』にも参加するなど、ビヨンセとパンサーというキーワードをめぐっては、さまざまなコンテクストと人脈が交差している。本作のリリースと同時に発売されたマーチャンダイズにおいても、パンサーのアイコンは重要なモチーフとなっている。)

 このアルバムには、ただ1曲だけ、2回登場する曲がある。「Lift Every Voice and Sing」(みんな声をあげて歌おう)という曲で、ビヨンセがステージ上で歌ったものと、ブルー・アイビー嬢が母親の前で歌っているものとが収録されている。この曲は、「ブラック・アンセム・オブ・アメリカ」として歌い継がれてきたものなのだそうだ。ブラックアメリカの国歌ということになるだろうか。

 ビヨンセは、この作品のなかで、いまは存在していないオルタナティブな国の姿を夢見ている。HBCUは、ビヨンセのワカンダなのだ。ただし、それは、現実の領土を要求する国家ではなく、「近代国家」という制度によって虐げられ植民されてきた、有色人種と女性という見えざる領土に旗を立てる、「アンチ国家」としての国なのかもしれない。その幻の国、見えざる大陸がたった二晩だけ2時間ずつこの世に姿を現した、その貴重な記録をビヨンセは「里帰り」と名づけた。

 白人の観客が主体であるコーチェラの舞台で、このパフォーマンスを行うことに当初ビヨンセは躊躇を感じていたのだという。それは、まさに、人知れず独自に育んできた自国の文明を、西欧世界にさらすことで搾取の対象とされてしまうことを恐れたワカンダの長老たちの躊躇を思わせる。けれども、ビヨンセは、ブラックパンサーその人でありワカンダの王子でもあるティチャラと同じ決心をする。

 ビヨンセは女王の出で立ちをもって、見えざる祖国の姿を全世界にさらし、彼女自身が、そこへの帰還を果たす。その見えざる国は、しかし、過去に消え去ったものとは限らない。ビヨンセが『HOMECOMING』で描きだしたパラレルワールドは、この世界の未来の姿を映したものなのかもしれない。という可能性は残されている。
 

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著者略歴

  1. 若林 恵

    1971年生まれ。編集者・ライター。ロンドン、ニューヨークで幼少期を過ごす。早稲田大学第一文学部フランス文学科卒業後、平凡社に入社し、月刊『太陽』を担当。2000年にフリー編集者として独立し、以後、雑誌、書籍、展覧会の図録などの編集を多数手がける。音楽ジャーナリストとしても活動。2012年に『WIRED』日本版編集長に就任。2017年退任。2018年、黒鳥社(blkswn publishers, http://blkswn.tokyo )設立。

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