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桐野夏生 日没

桐野夏生×武田砂鉄 「日没」を迎えて

〈対談〉「日没」を迎えて

桐野夏生
武田砂鉄

 

「作家収容所」と「ニヤニヤ」 

武田 これまでも社会の閉塞感を吸収した作品を書かれてきた桐野さんが、今回の『日没』では作家を主人公として、これまで以上にストレートにその閉塞感を直視したように感じました。執筆にあたっての動機は何だったのでしょうか。
 
桐野 この十年近くの傾向だと思うのですが、小説が「純文学」と「エンタメ」に二分されて、私自身も「小説家」ではなく「エンタメ作家」と呼ばれることが増えました。ただ普通の小説を書いているつもりなのに、なぜそうやって〈文化的なもの〉と〈売れるもの〉に分けられてしまうのか。「純文学」と「エンタメ」のあわいにいる小説家はたくさんいるにもかかわらず、そのあわいが取り払われていることの意味について、ずっと考えてきたんです。何かに都合がよくなっているのではないか、と。
 その背後にあるのは新自由主義とグローバリズムではないかと感じたのは、アメリカで本を出版した時のことでした。『OUT』という、主婦が夫を殺害しバラバラにする事件を描いた小説ですが、それを書いた私は「アジアで激しい小説を書いている女性作家」に分類され、それ以上でもそれ以下でもない存在だったのだと気づかされたのです。好きなことを自由に書いてきたつもりなのに、何かのジャンルを代表させられている、という不自由さを感じました。文学は自由だといいながら結局、経済原理で雁字搦めになっている。
 日本でも、売り方として「これはノーベル賞作家級」「これはエロティックなことを書く人」「これは泣けるエンタメ」と小説が分類され、そのジャンルを作家たちが担わされてゆく。そこに強い違和感を抱いたのが、執筆のきっかけでした。そんなことを言うと、あなたは純文作家になりたいのか、と穿った見方をする人がいますが、大きな誤解です。分類することによって、差別が生じている、と言いたいのです。
 
武田 小説ではその「エンタメ作家」に分類される主人公マッツ夢井が、「犯罪をあたかも肯定するかのように書いている」という告発により、作家収容所に囚われます。私が恐怖を感じたのは、その収容所側の人間たちがやたらと「ニヤニヤしている」こと。たとえば所長の多田は「読者に冷たい作家は嫌われますよ。みんなインスタやツイッターとかでも、ファンサービスしてるし、愛想いいじゃないですか」と主人公を嘲笑します。自分も文章を書いていて、こういう「ニヤニヤ」の存在を日々感じます。一方で、「常に上機嫌でいようよ。それが世を渡っていく術なんだから」と開き直る人が多い。
 
桐野 ニヤニヤもふたつあって、笑ってごまかす人と、冷笑があると思います。冷笑は、自分をあたかも賢く、上から見下ろしているかのように見せられる。
 
武田 自分もマッツのように「怒れ、理不尽さに抗え」と訴えることがありますが、そうすると「まあまあ上機嫌でいようよ」と言われるか、「そんなに怒っちゃって」とニヤニヤされる。ネット空間に充満しているのって、この「上機嫌」と「ニヤニヤ」です。その反応はいずれも不快ですが、徹底的にそれを繰り返されると、身動きがとれなくなってしまう。ある意味では、身体的な収容よりも怖いかもしれない。
 
桐野 笑って済ませるのは、ごまかしですし、相手を見下しているわけですよね。私も先ほどの作家の分類について真剣に議論しようとすると、「まあまあ、いいじゃない」で済まされてしまうことが多いです。非常に重要な問題だと思うのです。なぜなら、私たちの作品がポピュリズムに利用される危険につながるからです。
 

社会の劣化、小説の地位の低下

武田 分類ということで言えば、桐野さんは「社会派作家」と呼ばれることもありますが、よく考えると不思議な言葉ですね。作家というのは常に社会派だろう、と(笑)。こんな言葉が存在するのは、「社会派」という記号を拒む作家が多いからなのでしょう。政治的な主張を避けるとか、デリケートな社会問題には踏み込まないとか。皮肉を込めると、それって極めて「社会的」な振舞いでもありますね。
 
桐野 政治的なものへのコミットを嫌う作家は増えていると思います。いま現在、この世の中を生きていれば政治的なものはどうしても関わってくるし、それを書かないと小説がファンタジックになって面白くないと思うのですが。政治性を帯びないことの方が、よほど政治的だと思います。
 
武田 新型コロナの感染が拡大したこの半年、政治状況はひどいものでした。そのなかで自分が書くものが随分素直になったな、と感じるんです。というのも、皮肉を投じたところで、政治という「幹」がグニャグニャしているから効果がない。「もっとキチンとしろ」なんて、つまらないことを書いている(笑)。『日没』でも、真面目に話したところで、そもそも相手に通じない、という主人公の無力感が頻繁に描かれていますね。
 
桐野 小説そのものが通じなくなっている、と感じることもあります。『日没』の中に、主人公と同じアパートの住人で、周囲の四方山話を集めては送りつけてくる「田中さん」という人物が出てきますが、私も友人から、どうでもいい話を聞いた時、「これ小説のネタになるでしょう」と言われたりするんですね。そういう人たちにとって小説は、四方山話を書くものなんだと。そのことに愕然としますが、いま小説が届くだけの「幹」を持った人はほとんどいないと考えたほうがよいと思っています。
 
武田 その「幹」を作るのは小説家の役割ではない?
 
桐野 以前はそうだったと思いますし、今もそうだと思うから努力はしていますが、十五年ぐらい前から、小説が人に及ぼす影響力が著しく低下したと感じています。
 
武田 桐野さんは二〇一六年の「江戸川乱歩シンポジウム」の基調講演で、「批判精神があれば、その物語が消費されることはありません」と仰っていますね。あれから四年が経ち、その考え方は変わっていませんか。
 
桐野 今は消費以前の問題じゃないでしょうか。無視、あるいは素通りですね。小説の中にある批判精神なんて誰も関心がない。小説の受け取り方自体が変質してしまって、「田中さん」的に、ただ楽しめればいいものになっていると思うこともあります。だから、エンタメという語が堂々と大手を振って歩いているのでしょう。
 
武田 無視……。まさに『日没』の権力者側が目指す道ですね。小説という存在を無くてもよいものに変え、小説の持つ力を無化してゆく。
 
桐野 そもそも長い物語を文章で読むことに耐えられない人が増えているんじゃないでしょうか。だからこの小説に出てくる菅生静(すごうしずか)がされたように、差別主義者の登場人物が喋っている箇所だけを抜き出して、「この作家は差別的な人間だ」と断じられていくような傾向も生じると思います。武田さんも『わかりやすさの罪』(朝日新聞出版)でお書きになっていますが、やはりネット社会になったことが大きいですね。
 
武田 とにかく長大なものを経ずに、万事が手短に済む。本書の中で「次々と玄関先に情報がやってくるから、顧客が偉そうになった」と書きました。つまり、「僕はここに座っているから、気持ちいい情報、わかりやすい情報を早く提出してくれよ」という態度ですね。目の前に来た情報が、ちょっとでも長かったり、小難しかったりすると、すぐに追い払う。ツイッターでもTikTokでも、その「尺の短さ」に一度馴れると、そこから長い作品に回帰してもらうのは難しいかもしれない。
 
桐野 仰る通りだと思います。
 

「わかりやすさ」と表現の危機

武田 『日没』は、先の「江戸川乱歩シンポジウム」の講演と同じ二〇一六年に連載開始ですね。第二次安倍政権以降、二〇一三年に特定秘密保護法、一五年に安保法制が成立し、連載中の一七年に共謀罪も成立しました。国民の動きを縛る現実の流れとリンクするように物語を書かれてきたわけですが、振り返っていかがでしょうか。
 
桐野 書き始める前は、ソルジェニーツィン『イワン・デニーソヴィチの一日』や、北朝鮮の政治体制を扱った作品などをイメージしていました。半分冗談で始めた「作家収容所」ですが(笑)、世界的にも、段々リアルな話になってしまったな、という実感があります。作家が収容所に入れられないまでも、社会的に抹殺されることはあるかもしれない。
 
武田 作中にも「共謀罪」という言葉が出てきますし、収容所側は「ヘイトスピーチ法」を根拠として作家の表現を問題視し、更生させようとする。これらの法案が成立した後、何が起きるのかをチェックせずに来てしまいましたが、その脅威が作中で不気味に形を持ち始める感覚がありますね。
 
桐野 小説でも書いたように「政治権力は、ひとつ妥協すれば、ひとつ罠を仕掛ける」ものです。だから、ヘイトスピーチ法の成立と引き換えに、表現の自由が損なわれる何かが起きる、と考えています。
 
武田 少し前、リアリティショーを謳う番組の出演者が、制作側からの過度な要求やSNSの誹謗中傷などによって自死に追い込まれる、という痛ましい事件がありました。すると、すぐに自民党が「今がチャンス!」とばかりに、三原じゅん子議員をトップにしてネット上の表現規制を検討するチームを作った。あの方たちが、表現行為というものが何なのか、事細かに分かっているとは到底思えない。
 
桐野 思えませんね。表現というのは、作家や芸術家が身を削り、責任を持ってつくるものであって、差別的な言辞の垂れ流しとはまったく違う。そのことを私たち表現者側が言っていくべきなんです。しかし、なかなかそういう議論にならないため、昨年のあいちトリエンナーレの展示中止事件もそうですが、創作物とヘイトが同列に扱われるようになってしまう。非常に危険だと思いますね。
 
武田 あいトリの実行委員会に抗議や脅迫の電話が殺到した時に、河村たかし名古屋市長が「それこそ表現の自由じゃないですか。自分の思ったことを堂々と言えばいい」と言い放った。非常に暴力的で稚拙な発言です。また、『週刊ポスト』の「韓国なんて要らない」特集が問題になった時も、あいトリや「保育園落ちた日本死ね」ブログを引き合いに出し、隣国を批判する自由を認めないのはダブルスタンダードだ、なんていう主張が湧き出ました。
 
桐野 そうした論理のすりかえが、何の批判もなく報道されるのが問題だと思います。
 
武田 その次元の戯言に対して議論しなければならない、というのがしんどいですね。『新潮45』における杉田水脈議員や小川榮太郎氏のLGBTへの差別発言に非難が集まった際、桐野さんも、『新潮』が組んだ検証特集「差別と想像力」に文章を寄せられました(二〇一八年一二月号)。そのタイトルが「すべてが嫌だ」。「何かの陰謀ではないかと勘繰ってしまうほど、二人の文章が抜きん出て愚劣」と書かれていた。この手の主張が、同じ土俵に乗る。すると、相手の主張もそれなりのものかのように見えてくる。それが彼らの狙いでもあるわけですね。まさしく「すべてが嫌」です。
 
桐野 どうしてそんなことになってしまったのでしょう?
 
武田 メディアの影響が大きいと思います。最近は、多くの新聞が、二項対立・両論併記で社会問題を取り扱う。たとえば、朝日のオピニオン欄でも、賛成・反対・中立派を登場させて、それぞれの主張を対等なものとして載せますね。
 
桐野 それも「わかりやすさ」ですね。あと、テレビのニュース番組も批判しない。政府の言うことをそのまま報道している。それは従来の報道ではない。
 
武田 報道側が自分たちの言葉に責任を持ちたくないという面もあると思うのですが、それを続けすぎたあまり、本来は対論として浮上させるべきでないものまで、それっぽく浮上させてしまったのではないでしょうか。『日没』では、そうした、本来なら相手にすべきでない議論が、もっとも暴力的な形で顕在化しているように思います。
 

「苦い敗北」を描く

武田 表現の危機について、以前、安倍首相が「特定秘密保護法で作れなくなった映画があるんでしょうか?」という趣旨の発言をしたことがあります。確かに、特定秘密保護法や共謀罪に直接抵触して撮影が取りやめになったことはないでしょう。けれども、世の中の空気を読みながら、控えた企画はたくさんあると思います。しかしそれは、可視化されることはない。この空気に馴らされると、たとえばこの小説なら「マッツのほうが悪いんじゃない?」と感じる読者も出てくるかもしれませんね。「ヘイトスピーチはいけないことだから、小説中の差別表現も規制しよう」という収容所側の暴論のほうが、ある意味で「わかりやすい」ですから。
 
桐野 そうですね。一方で、この小説は、闘うことを求められているとも思うんです。ところがマッツは恭順もするし、転向もする。だから「一貫性がない」と言われたこともあります。今の日本では、苦い敗北を描く小説が認められていないんですね。「最後まで闘ってほしい。それが小説としての正しいあり方だ」と主張する人もいるかもしれない。だけど小説というものは、本当は違う。どんな立派な思想も、個人が生きていくうえでそれを通すには、必ずや大きな負担や犠牲を強いるものです。現実には苦い敗北もあるし、転向だってあるでしょう。それを書くのが小説なのに、いま小説のなかでは敗北すらも許されない。『日没』はそういう空気とも闘った小説です。武田さんのおっしゃる「わかりやすさ」でいえば、これは「闘う話」という切り分けられ方をすると思いますが、そこから外れるものとしての人間を描くという意味で、小説はあるのだと伝えなきゃいけない。そのために表現の自由がある、と思っているのですが。
 
武田 桐野さんはいつも結末を決めずに書き進めるそうですが、今回のラストについて迷いはありましたか?
 
桐野 もちろんありました。マッツは逃げおおせるのか、そうでないのか、最後の最後まで悩みました。相馬というブレイン・コレクターも、初めの設定にはいなかった人物ですし。
 

「日没」の中の希望

武田 最近、政権に批判的な番組が放送終了になると、「政権の圧力があったんだろう!」という声が吹き上がります。実際は、単に視聴率が低かったり、スポンサーの問題だったりするわけですが。そうやってタブーの領域を自ら広めるような認識が増えている。自分もラジオで政権批判をすると、「すごいね。よく闘ってるね」なんて言われたりします。別に闘ってない。ただ感じたことを言っているだけです。「政権批判をしたらヤバい」という空気が勝手に膨らんでいるように感じます。
 
桐野 自主規制ですね。
 
武田 権力を持つ側からしたら、こんなに楽なことはない。「ニヤニヤ」していれば、大衆は勝手に怯え、刺し合ってくれるわけですから。
 
桐野 萎縮したり、自主規制したりというのは日本的なものでしょうか? この春の緊急事態宣言の状況下で「自粛警察」と呼ばれる人も出てきて、私も怖い思いをしました。
 
武田 大阪大学の三浦麻子教授のグループが、日本と諸外国を対象に「コロナ感染は自業自得だと思うか」というアンケートをした結果が讀賣新聞(二〇二〇年六月二九日)に載っていました。アメリカが一%、イタリアで二・五一%、中国が四・八三%に対して、日本は一一・五%が「本人が悪い」と答えたそうです。この一一・五%という突出した数字を、安倍首相も小池都知事も理解しているんですよね。「補償金を出さなくても、誰かしらが自粛警察として働いてくれる」と。
 
桐野 「夜の街」に非を押し付けるというのも、日本だけですよね。自己責任論って日本人の性質と合っているんじゃないですか? お話を伺っていると、収容所なんて作らなくても勝手に自滅するかもしれませんね(笑)。
 
武田 どこかに光はないんでしょうか。非正規雇用の搾取問題を描いた『メタボラ』を桐野さんが出されたのは一五年ほど前で、その頃はまだ社会のせいにできる空気があったように思います。ところが今は、パンチを打つにも社会の「幹」がグニャグニャしているし、批判や抵抗そのものが嫌悪される傾向もある。そうしたなかで、社会構造全体を見渡すための筋力や視点を取り戻してもらうには、どうしたらいいのでしょう。
 
桐野 本当は、社会のせいにしなきゃいけないんですよね。搾取される人たちが悪いわけでは絶対にないんだから。けれど自己責任論は資本の論理と強固に結びついて、社会の大きな「幹」を見えないようにしているし、その教育もなされていない。メディアも二項対立を煽るばかりで、社会を見る「目」を提供していないから、容易に現状を脱することはできないと思います。でも海外に目を向ければ、グレタ・トゥーンベリさんのように、地球温暖化問題という私たちの世代とは違った視点から世界に訴えかける若い方も出てきていますね。
 
武田 ただ、グレタさんに向けられる「ニヤニヤ」や嘲笑には、それこそ凄いものがある。
 
桐野 「ニヤニヤ」笑いって、オヤジ感があります。
 
武田 確かに、オヤジってのはよくニヤニヤしてますね。そこには対峙する相手への恐怖心や、多数派でいるための生存戦略のようなものもあるように思います。
 
桐野 若くてはっきり意見を言う人を「しゃらくさい」と思っている(笑)。だから、やはり、若い女性に希望があるかもしれません。彼女たちは就職先もなく、六割ぐらいが非正規で、貧困化も進んでいる。「社会が悪い」と真剣に怒っていますよ。フェミニズムの視点から社会の仕組みを見て行けば、自分たちがいかに搾取され、騙されてきたか分かるわけだから、そこを基点に変えていってほしい。「ニヤニヤ」笑いをはねのけてね。そうすると、男の人たちにも少しずつ波及するでしょう。今は、子育てに積極的に関わっている若い男の人も多い。私たちの時代とは随分変わったなと思います。怒っている若い女性とそのパートナーたち。萌芽はそのへんでしょうか。
 
武田 今の我々の社会では、希望を探し出そうとすると、パブリックなものが用意してくる安易な夢・希望に吸収されそうになり、身動きがとれなくなる。当然、その様子がしっかり監視されていく。『日没』の中でも、希望を見出そうとして従属する作家たちの姿が描かれていますね。
 
桐野 そうですね。面従腹背じゃないけど、うわべは恭順の姿勢を示したり、自分の中の何かを譲って、見せかけの自由を得るという道もあるかもしれない。でも作家としては、本物の絶望も描かないといけないと思います。
 
武田 きちんと絶望するというのは、逆説的に、明るさへの道でもありますね。この小説を読んでいて、少し先にある未来が描かれているような「嫌な気持ち」を終始感じました。これから読む桐野ファンも、絶望を味わいながら、「ああ、桐野夏生だな」という実感に浸れると思います。でも、それだけだと少し寂しい気もしますね。
 
桐野 それも一種の役回りでしょうから、仕方ないですね。一緒に絶望を味わいましょう(笑)。
 
  *本対談は、安倍元首相が辞意を表明する前、二〇二〇年八月四日に行われた。
 
 (きりの なつお・小説家) 
 (たけだ さてつ・ライター) 
『図書』2020年10月号掲載
 
 
 
 

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