白井 聡 「民主主義」と「道徳」の奈落──『日没』文庫化に寄せて
桐野夏生『日没』が読者を戦慄せしめる作品であるとの評は、定着済みだ。国家が「正しい芸術」の定義を下し、それに従った作品をつくるよう芸術家に強いるという現象は全体主義政治の特徴であり、『日没』は現代日本で刻々と進行しつつある全体主義化の現実を打ち抜いた。折しも、二〇二〇年九月に刊行されたのと同時期に菅義偉政権のもとで日本学術会議任命拒否事件が発生、小説との不穏な符合が話題を集めた。
だが、全体主義とは何だろうか。独裁者とその取り巻きが、自国を好きなように支配するために、特定のイデオロギーや個人崇拝を全国民に対して暴力を背景に強要する体制、であろうか。しかし、それだけでは単なる独裁である。
『日没』が真に全体主義を描き出した作品であり、それゆえに読者に強烈な恐怖を催させるのは、歴史上の全体主義体制と同じく、この作品世界における全体主義権力は「民主主義」と「道徳」の名のもとに作動している点にある。
主人公の小説家、マッツ夢井が政府の「文化文芸倫理向上委員会」から呼び出され、「療養所」に入れられてしまうのは、読者からの告発による。マッツの作品に「不道徳」の烙印を押した読者がおり、そのような「市井の一市民」の声に「誠実に」応えているという意味で、『日没』における日本政府は民主主義的なのだ。そして、作中では文芸の在り方をめぐって療養所の所長、多田とマッツは論争を繰り広げるが、多田が依拠するのは世論であり道徳である。
ここで歴史を振り返れば、近過去で最も長く持続した全体主義体制であったソ連邦では、芸術に関して「社会主義リアリズム」のドクトリンが堅持されていた。一九三〇年代初頭、スターリンの覇権が固まってゆく過程で確立されたこのドクトリンは、「芸術家に、革命的発展における現実を、忠実に、そして歴史的かつ具体的に描写することを要求する」(ミシェル・オクチュリエ『社会主義リアリズム』白水社文庫クセジュ、九頁)ものとされ、スターリンは作家を「人間の魂の技師」であると述べた。
見落としてならないのは、スターリンの覇権確立は、単なる独裁ではなかったことだ。その過程では古参のボリシェヴィキ党員が蹴落とされたが、スターリンが依拠した権力基盤は、年長のインテリ党員と入れ替わりにポストを得た、労働者階級出身の比較的若い党員たちだった。それは一種の平等化であり、その意味で民主主義的であった。
社会主義リアリズムにも同様の面がある。革命期に高揚したロシア・アヴァンギャルド芸術は、形式面での実験性ゆえに難解であり、大衆的ではなかった。前衛芸術を形式主義であると弾劾することによって成立した社会主義リアリズムは、大衆的であることに根拠を置いていた。ここにも民主主義がある。
大衆の名において作用する権力、自らに作動してくる強権の背後にそれを支持/指示する大衆がいること、このことが表現者に与える打撃は大きい。読者による告発を目にさせられたマッツはこう反応する。「私はすぐに口が利けないほど、衝撃を受けていた。まさか、作品の中の性描写を読者に告発されるとは、想像もしていなかったのだ」(文庫版六七頁)。
筆者は、同様の体験を身近でしている。筆者の友人の同業者が、失言によりいわゆる炎上事件を起こし、さる有名週刊誌にいろいろと書き立てられた。そのなかで大学の授業中の言動が切り取られて「問題発言」であるかのように報道されたのだが、情報の出所は受講者の元学生であった。友人は、「大学の授業で機微に触れる話はもうできませんね」と言っていた。
かくして、今日の全体主義は、カリスマ的独裁者など必要としない。必要なのは、大衆の平準化への欲求、この欲求から生ずる知識人への憎悪であり、大衆の欲求に忠実な権力だ。かの菅政権にしたところで、知識人に対する攻撃が「ウケる」と踏んだからこそ任命拒否に及んだのであり、世論の反応を見るに、この見込みは誤っていなかった。
桐野が描き出したのは、ニーチェやオルテガが警告した「民主主義のディストピア」そのものであり、その現実性はかつてないほど高まっている。大衆は、自分の物差しに合わせてあらゆる表現を解釈し、道徳を振りかざす。その際の道徳の根拠は「だって皆そう言ってる」というものであり、主体の全き空虚を表しているが、その空を平準化欲求から来るルサンチマンが埋める。
そのような「空の専制」の時代において、表現者が強いられる普遍的な運命を『日没』は描き出した。この運命の普遍性について、われわれはいかなる楽観的幻想も持つべきでない。希望があるとすれば、それは、桐野夏生がまさに実践しているように、スターリンが述べたのとは逆の意味で、表現者が「人間の魂の技師」たることから逃げないことにおいてのみである。
(しらい さとし・政治学・社会思想)
[『図書』2023年10月号より]