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桐野夏生 日没

佐藤アヤ子 桐野夏生が魅せるディストピア小説──『日没』文庫化に寄せて

 『日没』(二〇二〇年)のエンディングについて著者の桐野氏はこう明かす。「最後の一五行は、『日没』を雑誌掲載の再校の段階で加筆した」と。この最後の一五行の加筆がなければオープンエンディングで、読者の読みも変わったはず。読者は主人公で作家のマッツ夢井の未来に希望を抱くこともできた。今まさに強要されているマッツの運命も変わったかもしれない。しかし、加筆によって読者の期待は見事に裏切られる。『日没』は、希望も出口も全くない桐野一流のディストピア世界へと変わる。

 「ディストピアには二種類ある」と語るのは、カナダの作家マーガレット・アトウッド(一九三九―)。「一つは、独裁者が国民を、社会を牛耳るという不快な状況。もう一つのディストピアは無政府状態で、全く混沌たる状況になってしまうというもの」。前者のディストピア世界は、北米で大センセーションを起こしたアトウッドの出世作『侍女の物語』(一九八五年)で描かれた。『侍女の物語』は近未来の宗教独裁国家ギレアデ共和国が舞台。キリスト教原理主義者の革命で女性は仕事と財産を奪われ読み書きを禁じられ、妊娠可能な女性たちは世界的な人口減少のために〈侍女〉として集められ、子供を産むための道具となる。暗黒の世界である。〈侍女〉たちが着ている白いフードと赤いローブは、北米では今、女性の権利侵害への抗議デモ時の象徴衣装ともなっている。

 長い間、アトウッドは『侍女の物語』の続編を期待されてきた。作家自身は、「それはできない」と答えていた。しかし、「それからいくつかのことが起こった。世界はギレアデの社会から遠ざかっていくと思っていたが、アメリカを含めて多くの国がギレアデに戻りつつある」(BBC)と語り、『侍女の物語』の続編『誓願』(二〇一九年)の執筆動機を示す。

 後者のディストピアは、『洪水の年』(二〇〇九年)の世界にみることができる。『洪水の年』は、二一世紀初頭からアトウッドが取り組んだ近未来小説「マッドアダム」の三部作の二作目。この物語には興味深い点があると、アトウッド自身が指摘する。社会の決まりは無いも同然となり、生物体を取り巻く地球環境も不穏な時代に、科学と宗教を組み合わせたものを崇め、動植物の生命保護に献身する宗教団体「神の庭師教団」が登場することだ。「彼らの優しさと仁愛の精神は笑いを誘うが、同時に希望でもある。物語が進むにつれて、ディストピアとユートピアが含まれている」と彼女は語る。

 桐野もアトウッドも時代が抱える問題やエートス(気風)を敏感に捉え、それを創作に生かす作家である。また、ディストピアに関するアトウッドのこの二つの分類は、桐野文学にも通じるのではないだろうか。

 『日没』の主人公マッツ夢井は、「レイプや暴力、犯罪をあたかも肯定するかのように書いている」という読者からの告発で、海辺の断崖に建つ「天然の刑務所」である「療養所」に収容される。ナチスドイツの収容所よろしく、呼び名はB98番となり、個人の尊厳は剥奪される。「療養所」の所長は教示する。「猥褻、不倫、暴力、差別、中傷、体制批判。これらはもう、どのジャンルでも許されていない」と。マッツは心の拘束衣を強要される。作家が「無責任に書くから、世の中が乱れる」と所長は非難する。そして、表現にコンプライアンスを求め、社会に適応した作品を書くようにと。「総務省文化局・文化文芸倫理向上委員会」による国家の言論弾圧である。「独裁者」まがいの「ブンリン」によって、マッツは暗黒の世界に連行される。

 同じく桐野が著した『バラカ』(二〇一六年)と『燕は戻ってこない』(二〇二二年)もディストピア文学と言われている。しかし、『日没』とは違う。従来型のディストピアではなく、アトウッドが語る後者のディストピアの性質を持つ。『バラカ』の主人公の少女は東日本大震災での原子力発電所の爆発による放射能警戒区域で発見、保護され、「薔薇香」として生きることになる。しかし、本当の出自はドバイの「赤ん坊市場」。薔薇香の壮絶な人生を描いたディストピア小説である。

 『燕は戻ってこない』は、非正規雇用のために生活困難になり、「生殖医療ビジネス」に誘われた二九歳のリキが主人公。貧困ゆえに卵子を提供し、子宮、自由、人間としての尊厳を勝手な赤の他人に提供しなければ生きる道がなかったリキ。女性にとってのディストピアの世界である。

 しかし、薔薇香もリキも最後は希望をもたらす。それは彼女らの母親としての姿であり、暗黒の中にもユートピアが含まれている。桐野のディストピア小説が、アトウッドと同様、二つの顔を持っていることは、それぞれに魅力を放つこれらの三作品を読めば明白だろう。

 桐野とアトウッド、この二人の作家がディストピア文学について語る日がいつか来ないだろうかと、私は夢想している。 

 

(さとう あやこ・カナダ文学)
[『図書』2023年10月号より]


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