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桐野夏生 日没

中川成美 文学は抵抗する──『日没』文庫化に寄せて

 桐野夏生の小説『日没』は東日本大震災、フクシマ原発事故後に構想され、二〇一六年から連載が開始、二〇二〇年三月の新型コロナウイルス対策特別措置法成立直前に終結した。つまり、3・11からコロナによる社会的混乱開始寸前との間に挟まれた一〇年弱の期間を背景としている。刊行後に日本学術会議任命拒否問題や、名古屋出入国在留管理局での収監者の死亡事件など、『日没』の作品世界を彷彿とする出来事が頻出し、作品にも織り込まれた戦前期日本の過酷な言論弾圧と同様の強権的な思想統制国家に回帰する恐怖を呼び覚ました。

 3・11以後、国民の不安を煽らないためという理由から政府の情報は極端に制限され、国民の知る権利が圧迫された事実は、コロナ対策にも引き継がれ、情報管理社会は一層に強化された。急速に社会浸透したデジタルテクノロジーの多様化は、こうした事態に対抗する装置にもなりえたはずなのに、政府発表も民間ニュースも個人発信も何もかもが並列的に並ぶ状況は、公共圏と親密圏の境界が溶解して、相互に混ざり合いながらその大量の情報の意図をわかりにくいものとしていった。公権力が私的な装いをもって力をふるったり、匿名の個人的悪意が公権力と同等の力を発揮することが可能となったのである。危険を回避するためには常に緊張をもって注意し監視しなければならない。主人公・マッツ夢井が怠ったのは、この緊張感だった。

 マッツ夢井が召喚されたのは、作品にレイプやペドフィリアが肯定的に描かれているという読者からの検閲にも似た投書によるものであった。戦前期の出版法(一八九三年)や、治安維持法(一九二五年)による検挙は、内務省警保局や特高によってであり、権力の顔は明らかであったが、作中の総務省文化局文化文芸倫理向上委員会(ブンリン)は警察や検察ではなく、思想改造を目指す「療養所」であるらしい。ここでは収容所を療養所、収監を入院、強制拘禁を治療と言い換えて、医療機関を偽装している。この病の隠喩は、巧妙である。マッツ夢井を「ウイルス」感染者と))して、治癒という名目のもとにあらゆる暴力的な処遇を可能としていくのだ。しかし、思想という人間の内部を貫く思考そのものが放棄されたという証拠はどのようにしても確定・確認はできない。戦前期の転向であれば、先ず聴取書、尋問調書をもってその判断を下すのだが、マッツ夢井が曝されたのは、小説を「正しさ」という思想善導の道具にせよという文学そのものへの屈辱的攻撃であり、文学ほう)てき)の強制である。そして、それは不特定多数の「民意」、すなわちデジタル情報化社会の担い手である匿名の意志だと告げられる。コンプライアンスに則した「正しさ」こそが重要であり、作家の想像力は全否定されたのだ。このような公共圏の息苦しさは、戦前期においては公権力との相関の中で発生した。だが、現代では日常生活を担う親密圏のなかでも同様の閉塞感が支配する恐ろしさを、『日没』は描いている。

 治安維持法で逮捕され一九四五年八月九日に獄死した戦前の思想家・戸坂潤は社会的制度としての「風俗」を獲得していくのを「制度習得感」と名付け、それが「安易快適」と大衆が考えるようになった時、「風俗」は社会の基本的機構となって機能すると言っている(「思想と風俗」一九三六年)。桐野夏生が衝こうとするのは、「正しさ」を強要する硬直した現代の「風俗」である。人々がどうやってその「制度習得感」を獲得し、「安易快適」と感じるようになったのかという、発生のメカニズムへの疑問は『日没』の主要なテーマである。

 日本にあってそれを考えるとき、3・11以降の状況を抜いては考えられない。情報は混乱して制御され、やがて「風評被害」という文言によって批判は封殺された。時限法である震災特例法が切れた後、「自己責任」で対処せよという担当大臣の発言は、国家が国民を保護するという国民国家の要諦たる条件を放棄した瞬間でもある。それはコロナ後の自らが行動制限せよという「自粛」という用語に繋がっていく。

 混沌とした先の見えない社会にあって、最終的に「自己責任」をとるしかないという不安は、人々の生活様式、すなわち「風俗」を変えていった。思考停止して、大量に並べたてられた情報がどのような意図のもとに発されたかなど、いちいち詮索しないで受け入れていかなければ落ちこぼれてしまう。マッツ夢井があらゆる情報から遮断された療養所(絶滅収容所)に閉じ込められるのは象徴的だ。現代において人間が情報の奴隷から解放されるのは、))))の他にない。だから、ここは文学の力を集団虐殺するジェノサイドの場所であるのだ。『日没』は3・11からコロナに至る日本人が無意識に服従してしまった姿なき不条理な権力の所在を、文学的想像力の敵として浮かび上がらせた作品なのである。

 

(なかがわ しげみ・日本文学)
[『図書』2023年10月号より]

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