ゴヤ「裸体のマハ」──夢と現実の官能美
累計82万部、50年以上読み継がれてきた西洋美術史入門の大定番、高階秀爾『名画を見る眼』『続 名画を見る眼』のカラー版を刊行いたします。本書で紹介している名画からご紹介いたします。
ゴヤ「裸体のマハ」
──夢と現実の官能美
ふたりのマハ
ゴヤの生涯には、さまざまの伝説がまつわりついている。彼はスペインのサラゴサ地方の田舎町フエンデトドスの貧しい職人の家に生まれたが、ある日母親の言いつけで羊の世話をしながら石炭の屑で地面にいたずら描きをしていたら、たまたまそこを通りかかったお坊さんがそのデッサンにすっかり感心して、両親に話をして彼を連れてサラゴサのホセ・ルサンのアトリエに入れてくれた、といったようなエピソードである。
あるいは、そのサラゴサから、アカデミーのコンクールに参加するという名目のもとにマドリードまで歩いていって、コンクール落選後もマドリードで奔放な生活を送っていたが、女のことをめぐって町のならず者と刃傷沙汰を起こし、警察に追われる身となってイタリアに逃亡した、というのもそういう「伝説」のひとつである。
そしてイタリアでは、こともあろうに、修道院から尼さんを誘惑したという罪で死刑になるところを、やっとのことでうまく誤魔化して逃げたと伝えられている。
しかし、このような「伝説」は、いずれも、何の資料も根拠もなく、いつのまにか何となく口から口へと伝えられてきたものである。したがって、そのほとんどは、後世の創作であるに相違ないが、しかし、そのような「伝説」が生まれてくるというところに、ゴヤという異色ある画家の強い個性がうかがわれると言えるかもしれない。
マドリードのプラド美術館を訪れる人がこれだけは絶対に見逃すことがないと言われるゴヤの二点の傑作「裸体のマハ」と「着衣のマハ」についても、「伝説」は欠けていない。事実、長いこと、この二点の作品は、ゴヤの愛人であったアルバ公夫人をモデルとしたものだと言われてきた。ゴヤは、自分の愛人の輝くような裸身をカンヴァスの上に残そうとした。しかし、ふたりのあいだに疑いを持っていたアルバ公が不意にアトリエを訪れた時のために、着衣の作品を用意しておいた。つまり、実際は裸体を描きながら、表向きは着衣の肖像を描いていることにしていたので、結局二点の作品ができたというのである。
このエピソードは、宮廷において大きな勢力を持っていた貴婦人と芸術家との情熱的な恋というロマン派好みの筋立てと、モデルの顔かたちはもちろん、ポーズから背景、カンヴァスの大きさにいたるまで、まったく同じ二点の「マハ」が、着衣と裸体とで描かれたということを説明するのにきわめて都合がよいという事情のために、一時はかなり広く一般に信じられていたものである。
しかし、いかに一般受けするものであっても、伝説は所詮伝説である。ゴヤのこの二点の「マハ」の場合、アルバ公夫人との関係はまったくなかったのである。(なお、「マハ」というのは、スペイン語で「伊達女」というほどの意味であり、いきで、陽気で、ちょっと蓮っ葉なところもあるマドリードの女たちは、その代表的な存在であった。)
「ゴヤただひとり」
もちろん、しばしば語られている通り、アルバ公夫人とゴヤとがきわめて親しい関係であったことは否定できない。ゴヤは、スペイン国王の宮廷で人びとの注目を集めていたこの公爵夫人を、1795年と1797年と、少なくとも二度、見事な肖像画に描き残しているが、最初の肖像画の時はともかく、二度目に彼が夫人を描いた時には、ふたりは単なる画家とモデルという関係だけでなかったことは、ほぼたしかなようである。現在、ニューヨークのアメリカ・ヒスパニック・ソサイエティに保存されているこの二度目の肖像画は、ごく普通のスペインの「マハ」のように黒いマンティラで頭を覆った公爵夫人が、濃い青い空を背景に風景のなかに立っているところを描き出したものであるが、真っ直ぐ立って前を向いたまま地面を指し示している夫人の右手にはふたつの指環がはめられており、それぞれの指環に「アルバ」という名前と「ゴヤ」という名前が書きこまれているのである。さらに、彼女が指さしている砂地の地面の上には、あたかも公爵夫人が書いたかのように、「ゴヤただひとり」という文字が読み取れる。この肖像画は、公爵夫人が存命中はずっとゴヤの手許に残されていたというから、注文による肖像画ではなくて、ゴヤが自分自身のために描いたものに相違ないが、とすれば、夫人の右手のふたつの指環や地面の上の文字から推量して、ふたりがきわめて親密な間柄であったことは、容易に想像されるところであろう。多くの伝記作者が、ゴヤの生涯のなかでアルバ公夫人との出会いを強調しているのも、理由のないことではないのである。
しかしながら、プラド美術館の着衣と裸体のふたりの「マハ」にアルバ公夫人の面影を見ようとするのは、かなり無理なようである。
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