高階秀爾『カラー版 名画を見る眼』刊行記念対談「眼と頭がつながること」(宮下規久朗、前田恭二) Vol.1
『名画を見る眼』がカラー版になりました。高階秀爾 著『カラー版 名画を見る眼』の刊行を記念して、この本が人生を決めたとおっしゃる宮下規久朗先生と、長く美術記者を続けてこられて、今は大学で日本美術史を教えていらっしゃる前田恭二先生に対談をお願いしました。今回は、『名画を見る眼』が刊行された時代について、また読みどころの一つとして、冒頭に目を向けるとどんなことが見えてくるか、お話を伺いました。三回に分けて、ご対談をアップしてまいります。
宮下先生は1963年、前田先生は1964年の生まれで、お二人は東京大学の同級生です。授業やゼミで高階先生に学び、前田先生は武蔵野美術大学で、宮下先生は神戸大学で教鞭をとられている美術史の専門家です。
青版『名画を見る眼』を読んだ頃
前田 新聞記者だった2016年、新書判の美術入門書をまとめた記事を書き、岩波新書の青版『名画を見る眼』について、「不動の定番」と紹介したことがありました。そのご縁で、編集者の方からご連絡を頂戴したのですが、ふと思い出したのが宮下さんのこと。まさにこの本を読み、高階先生に師事するという一念で、東大の美術史学科に進学してきたんじゃなかったかな、と。そこで僕たちは同級生となるわけですが、『名画を見る眼』であれば、宮下さんに登場してもらうのがいいのではと提案し、今日の対談が実現しました。
宮下さんは、たしか小学2年生で読んだという話でしたっけ?
宮下 いやいや、4、5年生ですよ。美術史を知るきっかけになったのがこの本でした。それまでも美術は好きで絵も描いていましたが、美術にこんなに奥深い世界があることをはじめて知った。高階先生のこの本が、人生の進路を決める上で決定打になったんです。
私は愛知県瀬戸市の片田舎で育ちましたが、田舎の小学生にも訴える力が大きかった。田舎の小さい本屋さんには美術の本はなくても、棚には岩波文庫や岩波新書があった。美術の本はこれしかなかったんです。美術の本に対する渇望感がありました。
前田 小学校4、5年生にしても、えらく早熟ですよ。もともと、興味関心の出発点は万博美術館*1ですよね。学生時代、万博美術館にはあの絵が出品されていたとか言っていましたよね。とんでもない記憶力。
宮下 万博は1970年、私が小学校1年生の時ですが、このときは万博美術館には行っていないんです。アメリカ館やコロンビア館、そして白い虎、月の石などは見た記憶があるのですが、親に聞いても行っていないという。ただなぜか家には万博美術館のカタログはありました。
前田 5巻本の立派なカタログですよね。
宮下 あれを小さい頃から見ていました。前田さんも万博美術館には行っていないでしょう?
前田 僕は万博自体、連れていってもらえなかった(笑)。宮下さんはあのカタログを愛読していたわけですね。
宮下 今の眼からすると、あれだけよく集まったなという気がします。
前田 ざっと700件といいますね。古今東西の美術品を集めて、「世界美術史」を見せようという壮挙。そのうち日本・東洋の国内所蔵分が400件でしたが、海外からも相当な名品が来て、170万人以上が入った。今ではほとんど話題にならないけど。
宮下 今度の万博では、そういうものを目指しているとは聞いたことがありません。
前田 美術に対するあこがれが強く、熱気があった時代ですよね。高階先生の『名画を見る眼』はその頃に登場しました。
宮下 『名画を見る眼』は69年の刊行です。ちょうど講談社、集英社、学研などから美術全集がたくさん刊行され始めた、美術書ブームの時代でした。高階先生も中心になってそれらを執筆されています。図書館に行けば、その頃出たたくさんの美術全集を見ることができますが、いまは全集の時代は終わり、西洋美術では20年以上前に刊行された小学館の『世界美術大全集』が最後でしょう。全国の美術館建設ブームはもう少し後、70年代に入ってから始まります。
前田 僕の家にも美術全集があった。タイムライフ社のもので(『巨匠の世界』TIME LIFE BOOKS、全25冊、1976年)、ジョットに始まり、デュシャンに終わる。それで「デュシャン最高」と思い込む生意気な高校生になっちゃった。
宮下 なるほどね。タイムライフ社の美術全集は、日本人のセレクションと全然違っていました。日本の全集はフランスの画家が主で、印象派やエコール・ド・パリが中心になりますが、タイムライフ社のものはアメリカの画家コプリーやホーマーが入っていたりと、今の目から見ても興味深い。前田さんは『名画を見る眼』を最初に読んだのはいつ頃ですか?
前田 高校時代じゃないかな。新聞の書評ぐらいしか情報がなかった時代だし、お小遣いで買える本となると、専門書はきびしい。やはり新書を読みましたね。当時、結構おもしろい美術新書が出ていましたし。
宮下 坂崎乙郎*2『幻想芸術の世界』(講談社現代新書)がまさに同じ年69年の刊行です。私が愛読したのは76年の『ロマン派芸術の世界』(講談社現代新書)です。夢中になって読み込んだ記憶があります。
当時の講談社現代新書は表紙からして、手に取りやすかった。無愛想な岩波新書とはちょっと違う(笑)。カラー図版はありませんが、ビジュアル的にも魅力的でした。それから木村重信先生*3の岩波新書『はじめにイメージありき』が71年、『モダン・アートへの招待』(講談社現代新書)が73年の刊行です。木村先生は、高階先生とともに日本の美術史を牽引された大先生で、美術好きであれば、この二人の本は読んでいたように思います。
前田 そのあたりの新書は、やはり高校時代に夢中になって、繰り返し読みました。
宮下 現代アートに対して憧れもありました。そういう地方の高校生にとって、木村先生の本はとてもよかった。
絵の中の世界に限る
前田 当時の新書を改めて読んでみると、やさしく書くというより、どれも本気の熱量を感じます。高階先生の本もそうですが、いま、こういう感じの新書だと、これじゃ難しすぎますよ、なんて編集者に言われるんじゃないかな。
宮下 もうちょっと平明に……と。
前田 坂崎さんはとりわけ文章の熱がすごい。
宮下 文学的な魅力で引き込まれてしまうのが坂崎乙郎の世界です。
前田 今回改めて思ったのは、69年に『名画を見る眼』が出て、続篇『続 名画を見る眼』が71年に出るわけですよね。学生運動真っ盛りの時代。それなのに、悠然と名画を語っておられる。美術というものへの確信と覚悟があったんじゃないかな。
宮下 社会や時代に関係ない超然としたスタンスです。そして下世話なことは書かない。たとえばフェルメールの「絵画芸術」は、ヒトラーやナチスが愛好した名画として知られている部分があります。またゴッホの「アルルの寝室」は松方コレクションの一枚であったのに日本に返還してもらえず、今もフランスにある。高階先生は松方コレクションを母体に建てられた国立西洋美術館で働いていたのですから、義憤を感じてもおかしくないのに、本文には書かれていない。
前田 今回、注記で触れられていますね。
宮下 普通だったらジャーナリスティックにその絵の変遷や遍歴も書くけれども、そういうことは意図的に、でしょうか、決して触れない。絵の中の世界に限る。それが逆に普遍的で、時代を超えて読み継がれた一つの理由であるようにも思います。
前田 僕は美術記者だったし、記事を書くとなると、やっぱり小ネタを入れがち。読者の気を惹こうと思ってしまう。
宮下 私もサービス精神でついそういうことに触れたくなる。
前田 そこのスタンスにもひとつ、高階先生の偉大さがありますね。
最初の一文のすばらしさ
宮下 冒頭にお話があった前田さんの記事は、一つの学問分野を広く見渡したまとめ記事としてよく覚えています。私の『食べる西洋美術史』(光文社新書、2007年)も取り上げてくれました。
前田 あのとき、『名画を見る眼』と、ケネス・クラーク*4の『絵画の見方』(白水Uブックス、2003年)をセットにして紹介しました。『絵画の見方』は高階先生の翻訳だし。
宮下 高階先生は「日本のケネス・クラーク」と呼ばれていましたが、ジェネラリスト的な美術史はケネス・クラークが先達でしょう。実際、『名画を見る眼』には、『絵画の見方』あるいは『名画とは何か』(ちくま学芸文庫、2015年)の影響があると思います。ただ読み比べると、翻訳ということを抜きにしても高階先生の本は圧倒的に読みやすい。
前田 日本の美術愛好家に向けて、ということを意識なさっていますよね。
宮下 そうなんです。日本人がどう名画と接するか、あるいは西洋の伝統のない日本にどう紹介するかがすごく考えられている。
前田 スルーしてしまいそうな耳慣れた用語についても、すっと説明を入れている。レンブラントの章では「主題」と「モティーフ」の違いをきちんと注記されているし、ベラスケスの章では「筆触」の説明までなさっています。
宮下 この「宮廷の侍女たち」は世界最高の名画です。この絵についてはケネス・クラークも取り上げていますが、高階先生は、
生まれながらにして絶対音感を持っている人がいるように、生まれながら正確な色調の感覚に恵まれている人というのがいる。ベラスケスは、たしかにそのような天才のひとりであった。
と絶対音感ならぬ絶対色調があって、ベラスケスはそれを持っているんだと言い切る。これはなかなか新鮮な考えです。
前田 「宮廷の侍女たち」について、ケネス・クラークは「われわれの最初の印象は、その場に居合わせているということである」と書き始めています。絵の世界への導入として、見事というしかない。『名画を見る眼』では「アルノルフィニ夫妻の肖像」がそういった呼吸で始まります。
ここでは、何もかもが魔法の世界のように輝いて見える。
宮下 この書き出しがすばらしい。
前田 まさにそこに居合わせている、と思わせる書き出し。ちなみにベラスケスについては、ケネス・クラークとは違って、プラド美術館での展示の描写から入ります。
宮下 章によって異なりますが、どの章も最初の1文が読者をとらえてしまう。ラファエルロの章も、「この作品では、われわれはまず、聖母の眼に惹きつけられる」とずばっと入ります。
前田 まず絵の世界にぐっと引き込む。入り口をはっきり示してくれて、見事です。
宮下 高階先生はその後も膨大な文章を書いていますが、この『名画を見る眼』は初発性ともいうべき勢いがあって新鮮です。気合いを入れて書いていらっしゃることがわかります。知っていることを平明に書くことだけでなく、文学的と言ってよいみずみずしさを感じました。
前田 ボッティチェルリの冒頭、「優れた舞台監督のようである」もうまい。そして「哀しいまでに美しい」と終える。このあたりも高階先生としては珍しいほどの文学性が光ります。
絵に導入する
前田 青版『名画を見る眼』と見比べると図版の質がよくなりましたね。いま僕の手元にあるのは、第70刷の青版。版を重ねて劣化したのか、図版がかなりぼんやりしていますが、やっぱりカラーになったし、細部が見えるようになった。
宮下 刊行当時はモノクロ図版で、ネットもなかったから、不鮮明な図版を一所懸命見ていた記憶があります。今回はカラーになって大きな図版が入っている。カラー版を最初に読む読者はまったく違う印象を持つのではないのでしょうか。逆に、現在のビジュアル社会では、こうでないと難しい。カラーでないのによく50年この本がもった、という感慨もあります。
前田 この本ではまず絵の中へ導入するわけで、あの図版では少しきびしかったということでしょうか。カラー版になってよかったし、新たな図版もたくさん入った。スーラの「グランド・ジャット島の日曜日の午後」とか。
宮下 最初の版にはなかった習作ですよね。挿図がほしいと思うところに入っているので、効果的で親切です。ただ同時に、イマジネーションというか、白黒の図版を見つめながら、本物はさぞやすごいんだろうなあと憧れを持ってこの本を読んでいた面もあります。想像力の入る余地は昔のほうがあったんです。
第二回では、直接教えを受けたお二人に、著者の高階先生のことをお話しいただきます。どうぞご覧ください。
宮下規久朗(みやした・きくろう)
1963年愛知県生まれ。神戸大学大学院教授。専門はイタリア美術史および日本近代美術史。東京大学文学部美術史学科卒業、同大学院人文科学研究科修了。
著書に、『ヴェネツィア──美の都の一千年』(岩波新書)、『闇の美術史──カラヴァッジョの水脈』(岩波書店)他、『カラヴァッジョ 聖性とヴィジョン』(名古屋大学出版会、サントリー学芸賞受賞)など多数。
前田恭二(まえだ・きょうじ)
1964年山口県生まれ。武蔵野美術大学教授。専門は日本近現代美術史。東京大学文学部美術史学科卒業。読売新聞社勤務を経て現職。
著書に、『やさしく読み解く日本絵画──雪舟から広重まで』(新潮社)、『絵のように──明治文学と美術』(白水社、芸術選奨新人賞受賞)のほか、『関東大震災と流言──水島爾保布 発禁版体験記を読む』(岩波ブックレット、近刊)がある。
注
*1 万国博美術館は、万博の主な展示館として開設された美術館。「人類の進歩と調和」というテーマにあわせて、東西の美術品(海外40数カ国と国内から732点)が展示された。
*2 1928-85、美術評論家。早稲田大学教授を務めた。
*3 1925-2017、美術史家。大阪大学教授、兵庫県立美術館館長などを務めた。
*4 1903-83、英国の美術史家で、ロンドン、ナショナル・ギャラリーなどの館長を務めた。主著に『風景画論』『ザ・ヌード』など。