モンドリアン「ブロードウェイ・ブギウギ」──大都会の造形詩
累計82万部、50年以上読み継がれてきた西洋美術史入門の大定番、高階秀爾『名画を見る眼』『続 名画を見る眼』のカラー版を刊行いたします。本書で紹介している名画からご紹介いたします。
モンドリアン「ブロードウェイ・ブギウギ」
──大都会の造形詩
華やかなネオンの輝き
日が暮れてから、ニューヨークの繁華街の中心地タイムズ・スクエアに立って南の方ブロードウェイ・ストリートを眺めると、大小さまざまの劇場、映画館、娯楽場、レストランなどのネオン・サインが、旅行者の心を誘うように華やかに明滅しているのが見える。現在のブロードウェイのネオンは、1943年に規制されてだいぶおとなしくなっているはずであるから、その3年前にモンドリアンがはじめてニューヨークにやってきた時は、もっともっと賑やかなものであったに違いない。
当時すでに70歳を目前にしていたモンドリアンは、たちまちその近代的な、華麗な輝きの虜になってしまった。彼は、ちょうど30年前、オランダの田舎からはじめてパリに出てきた時と同じような魂の昂揚と若々しい情熱を覚えて、ニューヨークの街の中を歩きまわった。
第二次大戦中、多くのヨーロッパの画家たちが、戦火を逃れてアメリカにやってきた。例えばシャガール、レジェ、エルンストなどがそうであるが、彼らは、いずれもアメリカの愛好者たちの熱烈な歓迎を受けながらも、ヨーロッパ、ことにパリに対する郷愁を棄てきれなかった。彼らは、戦争が終わると、申し合わせたようにふたたび大西洋を渡って、セーヌ河の畔の町に戻ってしまった。それに対し、モンドリアンは遂に戦争の終わるまで生き永らえることができなかったが、たとえ生きのびたとしても、彼はそのままニューヨークに住み続けたに違いない。モンドリアンは、それほどニューヨークの町に惹かれていたのである。
すでに戦争の始まる前から、モンドリアンはアメリカに渡りたいという強い希望を抱いていて、ニューヨークにいる友人に助力を頼む手紙などを書いている。そして、多くのヨーロッパの芸術家が、アメリカの「物質主義的」文明にいささか軽蔑のまじった皮肉な眼差しを投げかけたのに対し、モンドリアンは、ニューヨークの持つダイナミックなたくましいエネルギーとその壮麗な技術的達成に深い共感を抱いていた。ニューヨークに着いて間もなく、ある新聞記者がインタヴューに際して、ニューヨークの摩天楼はあまりに高過ぎるとは思わないかと質問したのに対し、モンドリアンは、「いや少しも高過ぎはしない。現在のままで実によく調和している」と答えている。そして、1944年、世を去る数週間前に、やはり新聞記者に向かって、「私はこの町こそ自分のいるべきところだと感じている。私はアメリカの市民になりつつあるのだ」と語ったという。
1942年から43年にかけて描かれたこの「ブロードウェイ・ブギウギ」は、アメリカに対するモンドリアンのそのような愛着と共感を物語る見事な芸術的証言である。しかもそれは、彼の長い生涯の最後を飾る作品となった。この大作を仕上げた後、モンドリアンはもうひとつ、「ヴィクトリー・ブギウギ」と題するやはり同じような傾向の作品に手をつけ始めたが、しかし遂にそれを完成させることはできなかったからである。
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