ファン・アイク「アルノルフィニ夫妻の肖像」──徹底した写実主義
累計82万部、50年以上読み継がれてきた西洋美術史入門の大定番、高階秀爾『名画を見る眼』『続 名画を見る眼』のカラー版を刊行いたします。本書で紹介している名画からご紹介いたします。
ファン・アイク「アルノルフィニ夫妻の肖像」
──徹底した写実主義
驚くべき迫真性
ここでは、何もかもが魔法の世界のように輝いて見える。
舞台は特にこれと言って変わったところのないフランドルの富裕な商人の家の内部で、そのなかにやはりフランドル風の礼装をした夫妻が、手を握りあって立っている。部屋の様子は、特に飾り立てたとも見えぬ質素なものだが、天井から吊り下げられた豪華なシャンデリアや、壁にかけられた凸面鏡、ふたりのあいだの床の上にその一端を覗かせる多彩な敷物などに、この家の主人の趣味と財力とがうかがわれる。しかもそのシャンデリアや敷物や、その他室内のひとつひとつの調度品からふたりの人物の衣裳にいたるまで、何と精緻に、見事に描き上げられていることだろうか。
例えば、画面左手の窓からさしこむ北国らしい鈍い日の光を受けて輝く真鍮のシャンデリアの硬質な金属的な肌、主人公アルノルフィニの袖なしの長衣を縁取っている毛皮、夫人の頭を覆う白いヴェールのレース飾りなど、思わず手をのばして触れてみたくなるほど、なまなましい迫真力を持っている。
ということは、われわれはすでにファン・アイクの表現の魔術に引っかかっているということを意味する。われわれはいつの間にか500年以上も昔に引き戻されて、アルノルフィニの家の客になっている。高さ80センチあまりのこの板絵の世界のなかに、われわれはいつしかはいりこんでしまっているのである。
ファン・アイクは、この作品を描いた時、むろんそのような効果を計算したに相違ない。微細な細部の徹底した写実性と並んで、画面の構図全体がわれわれ見る者を否応なしにその中に引きずりこむ力を持っている。床と天井と壁で囲まれたこの四角い部屋の遠近法的構成は、そのまま画面の手前の方にも拡がってわれわれをも同一の空間のなかに包みこんでしまうからである。
このような室内空間の拡がりを、ファン・アイクは実に巧みなやり方で暗示している。静かに手をつないで立つアルノルフィニ夫妻のちょうど間の奥の壁に、前にも触れた円形の凸面鏡がかかっているが、よく見るとこの凸面鏡に、画面には描かれなかった手前の部分まで含めて、部屋の様子がそっくりそのまま映っているのである。
事実そこには、凸面鏡特有の歪んだかたちで、左手の開け放たれた窓も、右手の天蓋つきの赤い寝台も、天井のシャンデリアも映し出されており、じっと立つふたりの後ろ姿も、そのまま描き出されている。いや、そればかりではなく、そのふたりの後ろ姿のちょうど間に、この部屋の入口が映っており、今しも扉を開けて、ふたりの人物がはいって来たところまでが、克明に描かれているのである。
つまり、この画面だけでは、ふたりのいる部屋の奥の半分だけが描かれていて、手前の部分は描かれてないように見えるが、この凸面鏡には、部屋の全体がそっくりミニアチュアのように再現されているのである。そして、この部屋を見渡す画家の視点は、ちょうどその入口の扉のところに置かれている。ということは、われわれ見る者も、入口の扉のところから眺めているということになる。われわれがこの作品の前に立った時、夫妻のいる部屋のなかに招き入れられたような印象を受けるのは、実はそのためにほかならない。
とすれば、ファン・アイクは、この作品を描いた時、ちょうど部屋の入口のところに位置していたはずである。凸面鏡のなかで、部屋の扉口に立つふたりの来訪者のうちのひとりは、ファン・アイク自身であるのかもしれない。少なくとも理論的には、ファン・アイクは来訪者の場所に立っていたのである。
そのことをはっきりと証言するかのように、凸面鏡のかかっている壁に、ゴシック風の見事な装飾文字でJohannes deeyck fuit hic./.1434. (ヤン・ファン・アイクここにありき、1434年)というラテン語の書きこみが見られる。これによって、この作品が1434年に作られたものであることが明らかであると同時に、たしかにファン・アイクがこの夫妻の部屋にやって来たことが裏づけされるのである。
ジョヴァンニ・アルノルフィニは、その名前から想像される通り、もともとフランドル人ではなく、イタリアのルッカ出身の商人であった。しかし、自分の商売のため、当時北イタリアと並んで活発な商業活動を見せていたフランドルにやって来て、ずっとその地に住んでいた。(すでに見た通り、このふたりの服装は完全にフランドルのもので、イタリア風ではない。) そのため、ファン・アイクとも親しかったと推定されるが、それでは何故、ファン・アイクはこの友人の夫妻の部屋に「やって来た」のだろうか。
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