吉川一義『失われた時を求めて14』〈著者からのメッセージ〉
『失われた時を求めて』を全訳して
プルーストの小説は、紅茶に浸したマドレーヌの挿話だけでは片づけられない。その随所に、作家独自のことばの魔術による自然描写が出てくる。そこまで書くのかと溜め息が出るほどにうがった心理分析も見られる。サドマゾヒズムとしか形容できない性愛も暴かれる。愛する肉親の死も容赦なく克明に描かれる。
ユダヤ人や同性愛者への差別というアクチュアルな社会問題もクローズアップされる。社交界の会話には、漱石の『吾輩は猫である』を想わせる諧謔と皮肉があふれている。本作は文学や絵画や音楽や演劇をめぐる高尚な芸術小説と思われがちであるが、実際には面白おかしい場面が頻出する。
かくも多様な人生の諸相、過去の忘却と蘇生、それを通じてあぶり出される「時間」、これらを感知せしめるためにプルーストは桁外れの長篇を必要とした。
すべては「ついに発見され解明された人生、それが文学である」という作家の信念から発する。人生にかんする意識せざる真実を発見できる歓び、訳者も日々その歓びを味わいつつ本作を全訳した。
(よしかわ かずよし/京都大学名誉教授)