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山本貴光 岩波文庫百話

第36話 野上家の仕事

 岩波文庫の著者や訳者たちをそのつもりで眺めてみると、あちらこちらに家族や友人や師弟といった人間関係が目に入る。例えば『三銃士』(赤553−8〜9)や『モンテ・クリスト伯』(赤533−1〜7)で知られるアレクサンドル・デュマと『椿姫』(赤540−1)のデュマ・フィスの親子、シャーロットとエミリーのブロンテ姉妹、ウィリアムとヘンリーのジェイムズ兄弟などはその一例。師弟では、古代ギリシアのプラトンとアリストテレス、アリストテレスとテオプラストスなどもいる。

 日本の著訳者はどうかと見てみると、幸田露伴と幸田文の親子、森鷗外と小金井喜美子の兄妹、あるいは岩波書店とも縁の深い夏目漱石とその友人や門人たちも岩波文庫のそこここに姿が見える。そうした中でも、岩波文庫に夫婦親子が揃った野上家は少し珍しい例かもしれない。

 先ほど漱石とその門下と書いたが、門人の一人に野上豊一郎(1883―1950)がいる。英文学者で後には能楽の研究にも取り組んでおり、むしろそちらの方面で知っているという人もあるかもしれない。彼は旧制第一高等学校で教鞭をとっていた漱石に師事した人で、安倍能成、小宮豊隆、中勘助など、やはり漱石の門を出入りした人びととも交流があった(彼らも岩波文庫にいる)。

 岩波文庫には豊一郎の関心の痕跡が映り込んでいる。一方では赤帯の海外文学に何冊かの翻訳があり、他方では青帯の日本思想や黄帯の日本古典文学にその名前を見ることができる。試しに並べてみるとこんなふう。後に別の人によって新版が出ている本もあるが、いまはそうした細部は脇に置こう。

 世阿弥『花伝書』(青1−1、校訂)/世阿弥『申楽談儀』(青1−2、校訂)/世阿弥『能作書・覚習条条・至花道書』(青1−3、校訂)/杉田玄白『蘭学事始』(青20−1、校註)/『謡曲選集──読む能の本』(黄133−1、編)/シェイクスピア『マクベス』(赤205−2、訳)/デフォー『ロビンソン・クルーソー』(赤208−1〜4、訳)/スウィフト『ガリヴァの航海』(赤209−3〜4、訳)/バアナアド・ショウ『聖女ヂョウン』(赤246−6、訳)/ヴェデキント『春の目ざめ』(赤429−2、訳)/ピエル・ロチ『お菊さん』(赤546−3、訳)/テニスン『イノック・アーデン』(赤226−1、入江直祐訳、はしがき)/ディッケンス『クリスマス・カロル』(赤229−無番号、森田草平訳、はしがき)

 こんな具合で、翻訳は英文学の他にフランス、ドイツの作品にも及んでいる。一人の人物が複数の言語と岩波文庫の3つの帯(青・黄・赤)にまたがっている例はそう多くはないという点でも印象的である。豊一郎は小説も少し書いたようだが、岩波文庫には入っていない。

 他方で、野上弥生子(1885―1985)も作家としての仕事と翻訳者としての仕事の両方が岩波文庫に入っている。彼女は、明治女学校高等科を卒業した後、豊一郎と結婚し、彼を介して漱石から創作の指導と後押しを受けて作家として世に出た人だった。岩波文庫に収められた弥生子の著訳書を並べてみよう。

 チャールズ・ラム、メアリ・ラム『沙翁物語』(赤223−2、訳)/ブルフィンチ『ギリシア・ローマ神話』(赤225−1、訳)/ブルフィンチ『中世騎士物語』(赤225−2、訳)/『ソーニャ・コヴァレフスカヤ──自伝と追想』(赤638−1、訳)/ヨハンナ・スピリ『アルプスの山の娘──ハイヂ』(赤761−1、訳)/『海神丸』(緑49−1、作)/『迷路』(緑49−2〜3、作)/『真知子』(緑49−6〜7、作)/『大石良雄・笛』(緑49−8、作)/『野上弥生子随筆集』(緑49−9、[著])/『野上弥生子短篇集』(緑49−0、[作])/『欧米の旅』(緑165−1〜3、著)

 ご覧のように「作」と「著」も多い。そういえば、私は岩波文庫の『ギリシア・ローマ神話』で弥生子の仕事に触れて、そこから彼女の読者になったのだった。それはさておき、99歳という長命を保ち、晩年に至るまで執筆を続けた弥生子の仕事は、書簡や厖大な日記も含めて全55巻にのぼる『野上彌生子全集』(岩波書店)にまとめられている。

 岩波文庫にはもう一人、野上家の人がいる。二人の長男でイタリア文学者の野上素一(1910―2001)だ。以下は岩波文庫に入っているその訳書。

 ボッカチオ『デカメロン』(赤702−1〜6、訳)/カルロ・ゴルドーニ『宿屋のおんな主人』(赤703−無番号、訳)/ダヌンツィオ『死の勝利』(赤704−1〜2、訳)

 豊一郎と弥生子の書簡集『山荘往来』(岩波書店)を見ると、豊一郎が素一に「ホンヤクのコツを教へ込まうとしてゐる」と弥生子に知らせている手紙がある(1947年7月28日)。『デカメロン』の「第一巻分」が翻訳指南の材料だったようで、時期的にみて、岩波文庫に入る予定の原稿だと思われる(岩波文庫『デカメロン(一)』は1948年刊行)。面白い下りだけに引用してお目にかける紙幅がないのが残念。気になる向きは同書の307ページをご覧あれ。

 というわけで、岩波文庫に見える野上家3名の仕事を眺めてみた。他にも河野与一と多麻、寿岳文章としづ、湯浅芳子と宮本百合子といったカップルの姿も見える。こうした人間関係は、それぞれの本の読者に直には関係ないとはいえ、これもまた確かに岩波文庫を形づくった要素のひとつなのではないかと思う。

(やまもと たかみつ・文筆家、ゲーム作家)

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著者略歴

  1. 山本 貴光

    1971年生まれ。文筆家、ゲーム作家。現在、東京科学大学 未来社会創成研究院・リベラルアーツ研究教育院教授。慶應義塾大学環境情報学部卒業。著書に『文学のエコロジー』(講談社)、『世界を変えた書物』(橋本麻里編、小学館)、『マルジナリアでつかまえて』(本の雑誌社)、『記憶のデザイン』(筑摩書房)など。

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